九六フィートの高さから

それとなく落下 相対速度は限りなくゼロ

誰にも会わない日

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 一人暮らしを始めて一年が経とうとしている。

 僕より少し遅れて入居してきた隣の部屋の住民とは、いまだに面識がない。とはいえ、同じ大学の学生で、おそらく同じ学年、なんならあいつかなくらいの見当はついている。なぜそう思っているかは忘れてしまった。もうひとつ知っていることがある。歌が下手だということだ。毎日まいにち彼は夜中になると歌い出す。それが深夜一時とかなのだ。壁が薄いことはお互い知っているだろうに、分別というものがないのか。しかも無理のある高音でワンオクロックやユニゾンスクエアガーデンを歌うのだ。まったくもって不愉快としか言いようがない。ついに耐えかねて、数日間24時になるころに壁を叩いて、「はい、もうお時間ですよ」とお知らせすると、真夜中には歌わなくなった。そう、真夜中さえやめてくれればいいのだ。お互いにやりたいことはあるだろう。だからこその思いやりと歩み寄りが必要だ。よろしく頼むよ。

 ご近所付き合いという関係性は、一人暮らしの生活にはほとんど関与してこない。二部屋三階建ての小さなアパートの隣人でさえそうなのだから、むべなるかな。ゴミ出しの時にお向かいのおばあさんと挨拶を交わすくらいのものだった。しかし、それが少しだけ破られることがあった。きっかけはひょんなことだった。玄関前に干していた傘が風で飛んで、隣のお家のベランダに落ちてしまったのだ。出先で知らされ、乗り込んだバスの座席では気持ちが焦るばかり。何かお詫びの品とか持っていった方がいいのかな。一度自室に戻りついて気持ちを整えてから訪問すると、気の良さそうなおばあさんが出てきて安心する。怒られるというよりはおしゃべりをするような形になり、安堵とともに健やかな心持ちがしてきた。これは知らない人が知っている人に変わる瞬間だったからかもしれない。それからは家の前で顔を見ると自信を持って挨拶ができるようになった。

 誰にも会わない日がある。外に出ていようがなかろうがあまり関係はない。知らない人との間には透明な壁があって、視線はその上を滑るだけだ。透明な壁に日々守られながら、それでも心許なく感じてしまう。だから、その壁と壁とがゆるりと融け合い、上空に昇華されていく瞬間には、健やかな喜びが咲くのだろう。そしてそれは案外、難しいことではないのかもしれない、と思う。

 

 *

 

 大阪から京都へ向かう特急電車のなか。その日の僕は、座席で大学のレポートを書いていた。隣にはおじいさんが座っていた。そのおじいさんはそこで何をするでもなく、それでいて無為を持て余しているふうでもなく、窓外を眺めていた。電車は正確に進み、やがて地下へと入っていった。その頃にはレポートは書き上がり、僕は何を考えるでもなくぼんやりとしていた。ふと、隣のおじいさんのことが気になった。この人はいま、どういうことを考えているのだろう。どんな日々を過ごしてきて、いまからどこへ向かうのだろう。話しかけてみようか、とさえ思った。こんなに近いのに、こんなにも遠い。透明な壁は融け合わず、音もなくすれ違う。最初の一分子が輪郭を失うきっかけは、大したことではないのかもしれない。それでもその一分子を見つけることができない。

 そうこうしているうちに、おじいさんは「失礼」と言って席を立つ素振りを見せる。反射的に僕も席を立ち、通路を譲る。そのままおじいさんはホームに降り、近くのエスカレーターへ向かっていく。黒くて長い、小綺麗なコートを着た、その顔を見る。なぜか知っている人のような気がする。よく見ると、ああ、そうか、それは、僕だった。

 エスカレーターに一歩目を踏み出す。何とはなしに振り返る。終着駅へと向かうトンネルに吸い込まれるため、電車が鈍く動き始めるその中に、あの頃の僕がぼんやりと座っているのを、見た。

知らない

 電車に乗って窓の外を見る。近くのものは速く、遠くのものはゆっくりと、後ろへ後ろへ流れていく。僕の瞳孔は必死に追いつこうと運動を繰り返す。けれどもやっぱり追いつきやしない。遠近に騙され裏切られ、休まることはない。

 それでも僕は、流れる景色をどうしようもなく眺めてしまう。どうしてなのか、なんだか切ない気持ちになる。知らない、でも見慣れた町を、知らないそのままで流していく。

 知らないというのは寂しいことなのかもしれない。知り得た、そして知り得る全ての可能性に、目をつむりながら気づかないふりをすることだから。でも、そうするほかないこともある。そうでないと僕らは移動できない。止まれない、と思ってしまう。「本当は止まれないことなんてないのにな」と、通り過ぎてから思う。

 「時間と空間は昨日死んだ」これは未来派の詩人マリネッティの言葉だ。科学技術の進歩とともに、移動手段の高速化が一気に進んだ。今となってはインターネットがあるから、その死もさらなる深みに達している。時間と空間は一昨日死んだ。

 生活が猛スピードになればなるほど、僕らには時間がなくなる。おかしな話だ。だけどそれが「現実」だ。日本の電車は正確に、時刻表通りの時間にやってきて、出発する。僕は早めの時間に駅に着いておく、ということができないタチで、そのくせ乗り損ねると自分にバチギレるという悪癖を持っているが、目の前で扉が閉まることなんてザラにある。そして思う。あと一秒早ければ、あと一歩早く走り始めておけば、と。まあこれは僕がアホなのが唯一の原因なのでよしとして、それでも「1秒」のために止まれない現実があるように思う。その窮屈さを思う。

 

 12月に入った。冬の日光は薄くて白くて、眩しい。太陽の角度が低いため、目に飛び込む光の量が多くなる。あらゆるものに影を投げかける。冬には冬の世界の見え方がある。冬の色がある。冬の反射がある。

 その日も僕は電車に乗り、窓の外の光の反射を目で追っていた。遠くを、そして近くを。遠くに焦点を合わせていると近景は線のつながりの残像としてしか知覚できないけれど、しっかり目で追ってやれば、思ったよりもゆっくりに見える。

 白い街並みの反射を眺めていると、ふいにそこにいる人の姿に目が捕らえられることがある。その日僕の目を捕まえたのは、クリーム色の古いアパートのベランダで、組んだ腕を手すりに載せ、右を向いた顔をそこに埋めている男性の姿だった。なぜか鮮烈にそのシーンが胸に飛び込んできて、止まることのない電車の中から、ゆっくりと目で追った。彼はどうして、あの冷たい空気のなか、あの薄くて強い光のなか、ベランダに立っているのだろう。きっと何か、ベランダでなければ落ち着けられないものが彼の内側に渦巻いたのだろう。赤いセーターを着た彼は、僕が見ていたことなど未来永劫知ることはない。けれど、僕の中にはもうしばらくあのシーンが滞在するように思う。それがどういう意味を持つのか、僕にはわからない。

    知らない町の、知らない誰かの、知らない心模様を思う。

 

 

円城塔『道化師の蝶』を読む——「わたし」のメタは滅多打ち

円城塔『道化師の蝶』を読んだ。

読んでしまった、と書いたほうがより正しいのかもしれない。

 

表題作「道化師の蝶」、そして「松ノ枝の記」の二本の短編が収録されており、「道化師の蝶」は第146回芥川賞を受賞している。

円城塔という名前は知っていたが読んだことがなかったから、古本屋で見つけたときに買ってみたのだ。というのも、表紙がハッとするほど美しいから。表紙の装丁、もはや背表紙の印象でその本を読むかどうか決めてしまうことが多く、そういう意味で惹かれたことは多分にある。

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読み始めて数頁で、こんな文章は読んだことがない、と思う。書いてあることが、文章の組み立て方が。情感のない、翻訳体のような文体(もちろん、翻訳物の文章に感情が感じられないということが言いたいわけではない)。口から出まかせが溢れ出しているような、突拍子も無い会話。そういう日常とかけ離れた要素に夢中になって読んでいると、第二章(正確にはⅡ)が始まり、頭の中が掻き乱され始める。

 

結果、終始頭と意識と言語理解をひっくり返されながら最後まで読まされた。しかし、わかりはしない。それがこの物語の異様なところだ。複雑な伏線を張り巡らせ、最後に大回収して物語としてまとめる、という通常のプロセスを踏んではくれない。最終的に発散させたまま終わらせるのだ。その結果、読者はすぐにもう一度読むことになるし、何度読んでも同じようには感じない。二回読んだが、またそう遠く無い未来に読み直すだろうと思う。なぜなら、どこかがわかった気になると、また別のわかったと思っていたところが疑わしくなってくるからだ。永遠に捕まえることができないとさえ思う。ウロボロス

 

 

この物語の特異性は何か。非力ながら少し書いてみたい。

 

とにかくこの物語とその構造は、読者の無意識を欺いてくるのだ。

物語を読む読者にとって、一番無意識なこと。それは”地の文”というものだ。

物語が書かれている以上、そこには当然地の文があり、視点というものが立ち現れる。地の文は誰の視点なのか。「道化師の蝶」は全部で五つの章からなり、すべて「わたし」という視点から書かれている。相当奇特な者を除けば、読者は当然、最初から読み始める。そしてそこに現れてくる「わたし」こそこの物語の主体であり、読者が取るべき視点だと思う。そういうふうに本を読むことを教わっている。言い換えれば、そう思い込まされる。そしてそこにまず立ち上がる世界こそ、この物語の世界だと思う。または思い込まされる。「男が座っている」とあれば、「男が座っている」のだと思う。以下同文。それが普通のことであり、それは、それが前提とならなければ、物語の世界は錯綜してしまうからだ。

そうして、錯綜させられる。何度も。多重に。

この記事にはネタバレをする意図はないから、具体的な話には踏み込まない。実際に読んで、振り回されて欲しい。とても楽しいから。

 

もう一つ、予備知識としてあってもいいと思うのは、ロシア人文学者、ウラジーミル・ナボコフのことだ。「ロリータ・コンプレックス」の語源ともなった小説『ロリータ』の作者として有名な小説家だ。作者・円城塔のインタビューで、この物語はナボコフの長編小説『道化師をごらん!』の単行本の見返しに描かれた蝶のスケッチをモチーフとして書かれたことが明かされている。そしてナボコフとこの物語の共通点はそれだけでない。ナボコフの作風として挙げられるのが、文学的仕掛けの「難解さ」と言葉遊びである。これはちょうど「道化師の蝶」の特徴と重なる。さらにナボコフは鱗翅目研究者でもあった。要は蝶の専門家である。このようにこの物語とナボコフはあらゆる点で重ねられている。付け加えるなら、ナボコフの妻の名はヴェラであることを記憶に留めておくと良い。

 

 

ずいぶんと偉そうに講釈を垂れてみたが、いかがだろうか。ちなみに、この記事の地の文において一人称を使っていないことにお気づきになっただろうか。特に意味はない。ただのお遊びである。

 

 

何が真実なのかわからない。

「わたし」は誰なのか。彼ら、あるいは彼女らは誰なのか。

 

「わかるようにできていないのだから当然だ」

 

あの蝶を捕える網は与えられていない。