九六フィートの高さから

つれづれなるままに

涙袋がほぼないせいで人相が悪い

僕は音楽が好きで、映画も小説も大好き。そして今まで数多くの作品に心を動かされてきた。だけど僕はその感情の高ぶりが、すべて涙という形になって表出しない質というか、心と涙腺の回線の通信速度が遅い仕様になっているみたいで、涙が出るかどうかは作品や媒体、状況に左右される。でもやっぱりどうしようもなく涙が溢れてしまうこともあって、その違いはどこにあるのかとても気になってよく考える。そしてひとつ、これはあるかも、と思える説明がまとまったので、書いてみようと思う。

 

音楽 映画 小説

 

僕の大好きな、この三つの媒体の違いはなんだろう。

 

一つ目は、その媒体によって支配される感覚器官の違い。音楽は、(ライブやミュージックビデオだと視覚も用いるが)主に耳、すなわち聴覚を支配する。本は視覚、映画はそのどちらも使って楽しむもの。

 

二つ目は、その媒体によって拘束される時間の長さの違い。音楽は、クラシックやジャズだと何十分という長さにもなるが、僕たちが日常に不可抗力的に溢れているポピュラー音楽では三分から四分、長くてもせいぜい六、七分である。映画はだいたい二時間くらいのものが多い。本を読むのに要する時間は、本の内容の分量や、個人の読むスピード、趣向の違いによって異なるが、重要なのは、かける時間を自分で操作することができる点である。

 

三つ目は、その楽しみ方の違い。同じ映画を何回も見る人もいるけれど(僕は好きな作品はなんども見るタイプ)、やはり一般的には、本や音楽に比べると、その一回性は大きいように思う。本と音楽を比べると、やはり音楽の方が繰り返し楽しむものである。ここには前述のそれを楽しむにあたって拘束される時間の短さ、自由度が関係していることは明らかだけど、音楽においてはそれだけではないと僕は考えてて、この点についてはまた後ほど。

 

四つ目は、受け取る側の姿勢の違い。

音楽と映画は、初めから終わりまで、その体験の進行をこちらが操作することはできない。もちろん自宅でCDやDVDで楽しんでいる時には一時停止や巻き戻し、早送りをすることは可能であるが、その体験は本質的には受動的なものだと言える。音楽なら耳に、映画なら耳と目の両方に、流れてくるものを受け取っていく。ライブや映画館での鑑賞だとその性質はさらに顕著になる。ライブで演奏者がこちらの要望で演奏を一時中断し、またこちらの合図で再会するなんてことはありえないし、映画館でちょっと寝てしまったから巻き戻しする、なんてことはできるはずがない。受け取る側は流れてくるものを見たり聞いてりして受け取ることで楽しむのが、音楽と映画である。

それに加えて、映画は映画館に行く、これから映画を見る、という意志が必要。これは、言い換えるならば、今から二時間をその体験に捧げるという覚悟とも言える。現代人にとってはそれはリスクを伴うことなのかもしれない。実際に、映画館に訪れる人の数はピーク時(1958年)の11億2745万人から2015年には1億6663万人にまで減少している(一般社団法人日本映画制作者連盟 http://www.eiren,org/toukei/ )。およそ十分の一にまで減ってしまっている。これを見ると、映画は少しハードルが高いエンターテインメントと言えるのかもしれない。

それに比べて音楽は、よりファッション性が強く、ハードルが低いエンタメだと言えると思う。特に最近は、インターネットとスマートフォンが猛烈に普及して、YouTubeをはじめとする動画配信サイト、Apple MusicやSpotifyなどの音楽配信サービスで、いつでもどこでも好きな音楽が楽しめる時代となった。音楽は最も身近で気軽なエンタメだと言えるだろう。

次に本という媒体、読書という行為について考える。音楽を聴く、映画を見る、という行為とは異なり、読書においては、受け取る側の主体的な意志が必要となる。要は、受け取るためには自分で読み進めなければならない、ということ。本をただ眺めているだけではその情報は入ってこない。本に書かれている内容を取り込むためには、それなりの集中力が必要で、読むという行為は、ただ見ることとは違い、こちら側の主体性、読むぞという気合のようなものを必要とする。しかしその分、体験を自分で操作できる部分も大きい。空いた時間に少し読むことの積み重ねで一つの体験を作ることができたり、逆に一気に読む、あるいは”読まされる”という体験をしたことがある人は多いだろう。いずれにせよ、音楽や映画と比べ、主体性をその体験の土台としていることが言える。

 

 

次に、これら三つの媒体の、媒体としての違い、媒体と受け取り手の関係性の違いが、その体験の深さ、あるいは感動の深さにどういった相違をもたらすのか。ここからは僕自身の感性から語る点も多くあるけれど、それを一般化して言いたいと思う。

最初に述べたように、僕はあまり泣かない人間である。泣かないというより、涙を流さ ないといった方がより適切だ。それというのも、音楽でも映画でも本でもなんでも感動しやすい質ではあるから。要はちょろい。ただ感動が涙となって物理的に流れにくいだけで、心ではめちゃくちゃ泣いている。もうぐしょぐしょ。

そんな僕だけど、涙を流すこともないわけではないのだ。本や漫画を読んで、電車内にも拘らずボロボロ泣いてしまった経験も一度や二度ではない。でも、普段音楽を聴いたり、 映画を見たりして、目に涙がたまることはあっても、ボロボロ泣くことは、本や漫画に比べてかなり少ない。だからと言って、それが作品自体の素晴らしさだけに起因する違いとは僕には思えない。同じように感動しているけど、それが涙という形になるか、ならないかの違いは、また別の尺度から生まれるものだと感じられてならなかった。この思いと、これまでにあげたような媒体としての違いを考えると、体験の深さには、その体験へ向かう受け取り手の姿勢、取り組み方が大きく作用するんじゃないかと思うようになった。前述した体験の主体性である。ただ受動的に流れてきたものを受け取るよりも、自分から受け取りに行く時の方が、人は深い体験をできるのではないだろうか?少なくとも僕の場合はそのように思える…

 

 

さて、ここで先ほどほのめかしていた音楽もう一つの側面の話を。先ほど僕は、読書は主体的な行為だけど、音楽を聴くことと映画を見ることは受動的な行為だとか言ったが、音楽の場合は受動的な段階から、主体的な段階へと昇華させることができるのだ!それは、繰り返し聴く、という行為によって実現する。音楽を聴く上での体験には、まず大きく二つある。それは、初めて聴く曲なのか、聴いたことがある上で聴くのか、の二つ。初めて聴く曲に対しては、主体的な聴き方をすることは難しい。しかし、何度も聴く中で、曲の展開を理解し、歌ものであればメロディや歌詞を覚えたり、あるいはもっと細かく、「ここのギターのリフが好き」だとか、「一番と二番でドラムのフレーズが違う」というようなことに気づき、個人個人のお気に入りポイントが生まれてくる。そうすると、その曲を聴いている中で、聴くのと同時に頭の中で歌い、もうすぐあのポイントが来る!と予感し、実際にそのポイントにたどり着く快感を得ることができるようになる。ここまでくると、耳自体は受動的に刺激を受けているとしても、頭と心で主体的に聴くことができていると言える。さらに音楽を聴く上での主体性・相互性は、ライブなどの生演奏を聴くときにはより高まると考えられる。まずは質の良い音響設備による物理的刺激の増大。次に演奏者・歌い手の生の音。そして聴き手は体でリズムをとったり、人によっては踊ったり、一緒に歌ったりすることで、自分から楽しみにいくことができる。個人的には、音楽を聴いて涙するのは、圧倒的にライブの時だ。生の音を聞いて、自分でも体を使って全身で享受している時、その曲に対するあらゆる思いが無意識的に呼び起こされて、感動する。涙が溢れる。音楽は、曲を繰り返し聞き、その曲を自分の中に取り込み、自分の一部にできた時、主体的な聴き方をができるようになるのだ。その時、人は曲を超えたものを同時に体験しながら聴くことになって、そんな音楽の力に涙するのだ。

 

では、その曲を初めて聴く時はどうなのどろう。歌がある場合は、歌い手の歌唱力や、歌詞の内容で、初めてだろうと感動することがあることはわかりやすい。インストゥルメンタルな楽曲でも、初めてでも深い体験をすることはあるだろうが、僕は、その深さの質と量は、さっき言ったような体験とは異なるのではないかなと思うけれど、それらを数値化したり言語化するのは難しいこと。

 

 

主体性

 

これが自分の中ではキーワードのようだけど、それってなんだかエゴが強いななんて思ったりして、どうなんだ?とも思わないではない。単に薄情な涙袋無し男という説もかなり信憑性が高い。こんなに言葉を尽くしたのに…笑

 

実はこれ、大学の昨年度の授業のレポートに書いたものに少し手を加えたものなの。だから直したつもりだけどかなり硬い文章になっていると思います…読みにくかったらごめんなさい。