九六フィートの高さから

それとなく落下 相対速度は限りなくゼロ

シンギュラリティのその先は—サマンサとエヴァとポナンザに会って

 

 僕は高校二年生まで、自分が理系であることを疑わずにいた。それは、父親がそうだからだったし、数学はそんなに得意ではないけれど、理科は苦手ではなかったし、少なくとも嫌いではなかったからだった。だから進路を選ぶときも、工学部や理学部なんかを調べたり見に行ったりしていた。だけどちっとも惹かれなかった。何にも興味を持てないし、当然進路に迷った。

 そして気付く。自分は理系ではなかった。

 受験勉強としての理科は面白いし興味を持てた。でもそれはゲームだからだった。科学的な原理にも関心はあったしなるほどすごいと思いながら授業を聞いていたけど、そこまでだった。その先に自分の興味はなかった。というよりもむしろ、その先には恐れがあった。

 科学が無際限に発展していくことへの漠然とした恐れだった。

 そんなのはバカで無知な若者の戯言だと自分で思う。なぜなら、科学のなんたるかを何も知らないからだ。

 実際、iPS細胞ができたときもすげーと思ったし、はやぶさが帰ってきたときもすげーと思った。それらによってわかったこと、その先にあるものが人を、もしかしたら僕を救ってくれるかもしれない。なんならすでに僕はそういったものの恩恵を受けていま生きていられている。僕は生まれたとき、心臓に小さな穴が空いていた。割とよくある疾患ではあるみたいだが、一応死にかけた、らしい。当然記憶はないので、胸に残った手術の痕が僕の記憶の代わりをしてくれている。

 現代の医療に命をいただいている身なのだから、科学の持つ力の素晴らしさに心を震わせて、なんなら医学を志したってなんの違和感もない。

 なのに僕はそれが怖かった。

 しっかりとした理論があって科学の発展は良くないことだと言っているわけではないのだからタチが悪い。だけどとにかく、自分がその発展に貢献することはなんだか気が進まなかった。というよりも、その責任を負うのは嫌だった。その道に進んでいたら、きっとその責任に苛まれるだろうと予感したのかもしれない。

 

 シンギュラリティという言葉がある。AIが人間の知性を超えることである。

 AIは当時からすでに騒がれていたけれど、ここ最近はさらにその注目が加速しているようにも感じる。

 シンギュラリティについて語るとき、必ずと言っていいほど、「人間は滅びる」という言葉が伴う。それはもっともで、人間の知性を超えてしまったら、「人間の知性を超えたらどうなるのか」を人間には予測できない。AIが人間を敵視するかどうかはわからないけれど、今と同じような世界ではなくなるだろう。

 でもそれは、これまでに発展してきた諸科学が世界に与えてきたものと、どれほど違う変化なのだろう?これまでも変化してきたのだから、その一環に過ぎないのかもしれない。僕が単に保守的で、懐古趣味の強い人間なだけかもしれない。でも、怖い。

 

 僕がなぜこんな話をしているかというと、ここ数日に見た二本の映画が、ともに人工知能を題材にしたものだったからだ。『her』と『エクス・マキナ』だ。

 

 まずは『her』。


her/世界でひとつの彼女(予告編)

 『her』はある男性が人工知能、正しく言えば人工知能を搭載したOS、サマンサと恋をする物語である。

 映画としては、これでもかというくらいにカラフルで美しい、どこか透明な色彩に彩られた画面と、カナダ出身のインディー・ロック・バンド、Arcade Fireによる瑞々しい音楽、そしていちいち気の利いた、哲学チックなセリフたち、と、とてつもなく”おしゃれ”な映画である。それだけでも十分に見る価値のある映画だと思う。あとは人工知能役のスカーレット・ヨハンソンの声だけの演技も見もの、もとい、聞きもので、誰よりも人間らしいと感じてしまうほどの立体感に引きずり込まれる。

 

 では次。『エクス・マキナ』。


人工知能の未来『エクスマキナ』予告

 この映画は、世界的な検索エンジンの会社の社長が、一人の社員に人工知能エヴァのテストをさせるお話。彼女を人間だと感じられるかどうかのテスト。

 圧倒的な映像美。大自然の中に作られた現代建築的な極秘研究施設。でもそこには中庭があったり室内を大木が貫いているようなかたちになっていたりと、自然と人工物の対比だけでなく、その融合の美しさも映像に現れている。そこには人工知能という主題の扱い方も関係していて、非常におもしろい。

 

 どちらの映画も、シンギュラリティのその先を描いたものだと言えるだろう。でもその方向性はかなり異なっているとも言えるし、共通点があるとも言える。

 人工知能は天使なのか、悪魔なのか。

 

 先日放送されたNHKスペシャル人工知能 天使か悪魔か 2017』では、棋士羽生善治氏がナビゲーターとなって、人工知能の最先端が紹介された。中でも興味深かったのは、電王戦。つまり、人工知能と、人間界最高峰の棋士の直接対決である。ポナンザと名付けられた将棋用人工知能は、過去五万の将棋の棋譜をデータとして学習し、さらには700万を超える自己対戦、人工知能人工知能での試合を行なっている。そんなポナンザが名人・佐藤天彦氏との電王戦第一局、第一手目に指した手は、ポナンザが学習した過去五万試合には一度も存在しなかった第一手だった。将棋のセオリーや定石からは考えられない手で、早くも人間の頭脳を引っ掻き回し始めた。結果は、ポナンザの勝利で幕を閉じた。

 僕が棋士だったら、きっと絶望してしまう。しかし、羽生さんも佐藤さんも、そうではなかった。両氏共、AIの指す将棋に学ぼうとしているのだ。人間の積み上げてきた将棋の歴史、そこから考えられてきたあらゆる手。それらを遥かに凌ぐ速さと独創性で目の前に立ちはだかってきた人工知能。その存在に絶望するのではなく、人間の実力を伸ばすために取り入れようとしているのだ。

 佐藤氏の言葉が印象に残っている。

 「人間同士でやっていると気がつかないうちに、将棋の宇宙の中のある一つの銀河系にしか住んでいない感じになっていく。もっと広い視点で見ればいろんな惑星がある。(ポナンザとの戦いを通して)今まで気づかなかった自分自身の持っている面にも気づかされた」

 

 『エクス・マキナ』の中で、人工知能の進化は、生物の進化の文脈にあるという趣旨のセリフがあった。

 人工知能は人間が作り出した機械であることを超えて、新たな生命体として、人間がたどり着けなかった新たな銀河へと人間を連れて行ってくれるのか。それとも人間を置きざりにしていくのか。天使なのか、悪魔なのか。まだわからない。

 わからないことは、怖いことだ。でももう止められない。止めることが善でもない。

 シンギュラリティのその先を、僕たちは見届けられるだろうか?