九六フィートの高さから

つれづれなるままに

時限爆弾は作動したか?

 

 先日、友人と鎌倉へ行ってきた。元来出不精である私にとっては実に久しぶりの旅行で、紫陽花を見に行くというのが口実だった。

 それに際して、私はインスタントカメラを持って行った。この国民総スマホカメラマン時代になぜインスタントカメラ?と思う方もおられるかもしれないが、実はいま、インスタントカメラはけっこうな流行りを見せている。

 平成生まれの私は、当然インスタントカメラがリアルタイムな世代ではない。私がインスタントカメラいいかもと思ったのは、奥山由之という写真家を知ってからだ。奥山由之はそれこそいま一番流行りの写真家で、きのこ帝国やnever young beachなどの若手バンドのCDジャケットや、アクエリアスのCMなどに起用されている、まだ20代半ばの若い写真家である。私が彼を知ったのは、私の大好きな、NHKのSWITCHという対談番組だった。彼はその番組に、俳優の松坂桃李の対談相手として出演していた。そこで彼が何を語ったか、委細は覚えていない。けれど、彼がすごく楽しそうに自分のやっていること、自分の撮った写真、自分のやりたいこと、そして相手のことを語ったり聞いたりしている姿が目に焼き付いている。こんなに楽しそうに仕事をしている若者がいるんだという嬉しさと憧れを感じた。そして彼の撮る写真も、いいなと思った。簡単に言うとおしゃれな写真が多くて、でもそれだけではなさそうな、独特の空気感をフィルムに焼き付けているような写真だ。フィルムで写真を撮る経験なんてなかったし、旅先での空気感や色をフィルムに収めてみたくなった。だからインスタントカメラを持って行くことにしたのだ。

 友人と2人で紫陽花や街の風景、それからそこで見つけたフォントがかわいい看板などを撮った。

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 写ルンですを使っていたのだが、暗所がかなり苦手らしくて暗くて何が写っているかわからない写真とか、ピントがダメな写真もいっぱいあった。少し難しい。けれど、なかなかいいと思う。スマホで撮る写真は、確かに綺麗だけれど、その風景を見ているときの気持ち、感動を閉じ込めることはできない。インスタントカメラは解像度やシャープさでは劣るのかもしれないけれど、そのときの気持ちにより近い写真が撮れると思う。時代はまだデジタル一眼レフのほうが強いけれど、これからも続けようと思う。

 

 アナログへの回帰が流行になっているのはカメラだけではない。音楽の分野でもそれは起こっている。レコード、それからテープのブームだ。

 CDが売れない時代になってから、もうかなりの月日が経ったように思う。その結果として、音楽は2つの道に進んだ。一方はよりデジタルに、もう一方はよりアナログに。デジタルの最新形態として現れたのがハイレゾだけれど、あんまり一般に浸透していないように感じる。それに対して、最近のアナログ盤ブームは目に明らかだ。有名ミュージシャンがCDだけでなくアナログ盤でもアルバムをリリースしたり、インディーズの世界でも7インチのリリースやテープでのリリースさえ最近はよく目にするようになった。

 

 このデジタル化の権化、デジタル化を煮詰めて煮詰めて残った澱のような時代に、どうしてアナログへの回帰が至るところで起こっているのか?

 私なりの答え(かなりカッコつけた)を聞いてもらいたい。

 

 まず、デジタル化によって水準が上がったものは何か。私は「解像度」だとおもう。カメラしかりテレビしかり音しかり。どんどん細かく、どんどん「きれい」になったのだろう。私だって解像度の高いきれいな画面のテレビはいいなと思う。欲しいなと思う。しかし、解像度が上がれば上がるほど、失われていくものがある。それが「多義性」だ。

 たとえば、解像度の高い写真。とても鮮明で美しいし、被写体もくっきりはっきり、隅から隅まで細かく見ることができるだろう。でもそれは、限りなく「一義的」なものになっていると言えるのではないだろうか。言わば、写されたものは写されたものでしかない、という状態に固定されてしまうのである。誰が見ても、どう見ても、同じように理解できる。それはとても「便利」なのかもしれないが、そういう意味で一義的なものになると言えるだろう。

 一方、アナログのフィルムで撮った写真はというと、解像度も低く、輪郭もはっきりしないこともある。現像したものは、現実で見たものと同じ色ではないかもしれない。けれど、解像度の低さは、余白を与える。それは想像力の働く余地である。その写真は、そこに写っているものは、固定的なものではなく、可動的なものになる。恣意的なものになる。見る人によって違うかもしれない。それは少々「不便」かもしれない。でもそれは、そこに想像力が働くから。それは、悪いことではない。むしろ面白いことではないだろうか。

 物事はデジタル化によって一義化の方向へ進んでいく。それはきっと仕方のないことだし、悪いことでもない。だけど、一義的なものにばかり囲まれると、私たちが自由に動ける余白がどんどんなくなっていってしまう。どんどん便利になっていっているのに、なぜか閉塞感を感じてしまう。不可逆的な直線上の時間の中で、一義的なものばかりに追われる現代人。「コスパ社会」とでも呼びたくなる現代に生きる人々が見つけた「生き延びる」ではない「生きる」ための逃げ道。それがアナログへの回帰なのかもしれない。

 逃げていいんだ。私は今日も、逃げ続ける。

 

 

追伸

 鎌倉旅行に際して、私は1つ、時限爆弾を仕掛けておいた。それは、私の誕生日のときに手紙をくれた一緒に旅行にいく友人たちに、出発前に手紙を出すというものだ。旅行から帰ったら、手紙が届いているようにした。とてもアナログな時限爆弾である。私の仕掛けた時限爆弾3つは、ちゃんと作動したのだろうか?どのように作動したのだろうか?吹っ飛んでいればいいな。(多義)