九六フィートの高さから

それとなく落下 相対速度は限りなくゼロ

知らない

 電車に乗って窓の外を見る。近くのものは速く、遠くのものはゆっくりと、後ろへ後ろへ流れていく。僕の瞳孔は必死に追いつこうと運動を繰り返す。けれどもやっぱり追いつきやしない。遠近に騙され裏切られ、休まることはない。

 それでも僕は、流れる景色をどうしようもなく眺めてしまう。どうしてなのか、なんだか切ない気持ちになる。知らない、でも見慣れた町を、知らないそのままで流していく。

 知らないというのは寂しいことなのかもしれない。知り得た、そして知り得る全ての可能性に、目をつむりながら気づかないふりをすることだから。でも、そうするほかないこともある。そうでないと僕らは移動できない。止まれない、と思ってしまう。「本当は止まれないことなんてないのにな」と、通り過ぎてから思う。

 「時間と空間は昨日死んだ」これは未来派の詩人マリネッティの言葉だ。科学技術の進歩とともに、移動手段の高速化が一気に進んだ。今となってはインターネットがあるから、その死もさらなる深みに達している。時間と空間は一昨日死んだ。

 生活が猛スピードになればなるほど、僕らには時間がなくなる。おかしな話だ。だけどそれが「現実」だ。日本の電車は正確に、時刻表通りの時間にやってきて、出発する。僕は早めの時間に駅に着いておく、ということができないタチで、そのくせ乗り損ねると自分にバチギレるという悪癖を持っているが、目の前で扉が閉まることなんてザラにある。そして思う。あと一秒早ければ、あと一歩早く走り始めておけば、と。まあこれは僕がアホなのが唯一の原因なのでよしとして、それでも「1秒」のために止まれない現実があるように思う。その窮屈さを思う。

 

 12月に入った。冬の日光は薄くて白くて、眩しい。太陽の角度が低いため、目に飛び込む光の量が多くなる。あらゆるものに影を投げかける。冬には冬の世界の見え方がある。冬の色がある。冬の反射がある。

 その日も僕は電車に乗り、窓の外の光の反射を目で追っていた。遠くを、そして近くを。遠くに焦点を合わせていると近景は線のつながりの残像としてしか知覚できないけれど、しっかり目で追ってやれば、思ったよりもゆっくりに見える。

 白い街並みの反射を眺めていると、ふいにそこにいる人の姿に目が捕らえられることがある。その日僕の目を捕まえたのは、クリーム色の古いアパートのベランダで、組んだ腕を手すりに載せ、右を向いた顔をそこに埋めている男性の姿だった。なぜか鮮烈にそのシーンが胸に飛び込んできて、止まることのない電車の中から、ゆっくりと目で追った。彼はどうして、あの冷たい空気のなか、あの薄くて強い光のなか、ベランダに立っているのだろう。きっと何か、ベランダでなければ落ち着けられないものが彼の内側に渦巻いたのだろう。赤いセーターを着た彼は、僕が見ていたことなど未来永劫知ることはない。けれど、僕の中にはもうしばらくあのシーンが滞在するように思う。それがどういう意味を持つのか、僕にはわからない。

    知らない町の、知らない誰かの、知らない心模様を思う。