九六フィートの高さから

それとなく落下 相対速度は限りなくゼロ

小説「空白を走る」

 

 電車に乗っている。

 いつ乗ったのか確かではないけれど、もうずいぶん長い間乗っているような気がする。

 どこかで見たことがあるような、だけど全然知らない電車は、どこかで見たことがあるような、だけど全然知らない街の中に、きれいな曲線を描いていく。

 僕は窓際の席に進向方向を向いて座り、窓ガラスに重く頭を預けている。時折何かにつまずいたような振動がこめかみを刺激する以外は、妙に静かで、どこか白々しくさえ感じる。

 隣には誰かが座っているけれど、顔を盗み見るほどではない。

 僕はひとりだった。

 

 電車は時折ふと思い出したように速度を緩め、プラットホームへと滑り込んでいく。どこもだいたい同じようなものだった。最後に一つつまずくようにして、所定の位置におおまかに停車する。

 隣に座っていた人が大袈裟に立ち上がり、ホームへと降りていく。身ひとつのおじさんだった。顔は見えなかったがだいたい想像はついた。

 ホームで待つ人たちに見られているような気がして顔を取り繕う。実際は誰も見ていないことを本当は知っている。いつだってそうだ。

 また新たな知らない誰かが隣に座り、電車は動き始め、次第に速度を上げていく。まるで仕方なくそうしているかのような呼吸で。

 僕はもう長いことこの電車に乗っているから、それが電車のものなのか、それとも自分の中で疼いているものなのか、判然としなくなっている。視覚だって、目は開いていて窓の外を向いてはいるけれどそこに焦点はなく、窓ガラスの外、約五センチの中空にぼんやりと溶けている。

 こんな調子だから、時々やってくる車掌がこの電車の終着点を告げる声も、聞こえているし、聞いているつもりだけれど、耳に届いた途端にばらけて飛び散ってしまい、言葉として受け取ることができない。

 だけど、僕はこの電車の行き先を知っている。知っているような気がする。それは前向きな意味でもない代わりに後ろ向きな意味でもない。運命、とか、使命、みたいな恰好いいことでもない。ただ、行き先があるのなら、到着点があるのなら、知っているだろうな、という程度のもので、そこには大した感慨もない。わくわくもしないけれど、絶望的でもない。ただ近づいてくるだけのものを見ている。それだけのことだった。

 

 電車はまた、ゴール後のマラソンランナーのように少しずつ速度を落とし、次の駅へと着地する。その駅はやけに見晴らしのいい、ひらけた場所にあった。窓の外にはゴルフ場と鉄塔と、それから緑色が見えた。

 扉が開く音がする。車体は少し傾いている。

「隣、いいですか?」

 静かな車内で突然声が聞こえて、僕は驚いた。その声が自分に向けられたものか確かめるために振り向くと、そこに君が立っていた。君は微笑みとは言えないけれど、柔らかい表情をして、僕を見ていた。僕はなんでもないかのように必死に取り繕って(それは結構得意なことだ)、

「どうぞ」

と言ったが、声を出すのがあまりにも久しぶりだったために、少し不自然な発声になってしまった。取り繕いは失敗に終わった。

 そんな僕のややこしいあれやこれやなど、ひとかけらも気づいていないような自然さで、君は僕の隣に腰を下ろした。僕と違って、荷物はあまり多くなかった。ちょうどいい大きさの手提げを腿の上に載せて、また、僕の方を向いた。

「君はどこまで行くの?」

「……たぶん、最後まで」

「そうなんだ」

「君は?」

「わかんない」

 そのときの僕はきっと、なんとも言えない、ひどい顔をしていただろう。君の言っていることがわからなかった。「わからない」と言ってのける君の気持ちが、僕には全くわからなかった。

 僕の心は、もずに捕らえられ早贄にされたかのようにそこに突き刺さって動けなくなってしまった。

 どうして、自分の行き先がわからないのにそんなに平然としていられるのだろう。自分の着くべき場所がわからないことは、不安なことではないのだろうか。僕は不安だ。行き先はだいたいわかっているつもりなのに、だ。ずっと不安だった。ずっと、いつだってこのどろっとした、重い不安を胸の隅っこに飼って、この電車に乗ってきた。きっと、もうしばらく、もしかしたらもっとずっと長い間、こいつとともにこの席に座って、窓の外のどこでもないどこかを見ていくのだと思う。別に憂鬱なわけじゃない。ただこの不安は消えないだけの話だ。たぶん、どうってことない。

 どうってことない、と思ってきたのだ。

 やっとの思いで隣を見る。

 やっぱり君はなんてことない顔をしていた。この世には大した問題なんてないと思っている、いや、思ってさえいないかもしれない。ただ君はそこにいた。ただただ、自然に。そのことが僕を更なる混沌へと迷い込ませる。

 

 電車は相も変わらずに進んでいく。次の停車駅はまだ遠いようだ。車内の空気はやっぱり平静を装っている。

 打って変わって僕の方はといえば、君に崩された平静をなんとか取り繕って頬杖をついている。頭の中ではなんの整理もつかない物事がぐるぐると旋回しながらぶつかり合っている。

 それでも、この混沌はいつもの不安のように不穏ではなく、次第に強い光に照らされてできた影のように澄んだ輪郭を結んでいった。本当はわからないのにわかったふりをしている答えではなく、いまは全くわからなくても、僕が本当に探している答えがそこにはあるような気がしていた。 

 首を左にひねる。そこには強い輪郭を結ぶ君の横顔がある。

 僕はいまから、君に話しかけようと思う。

 

   <終>