九六フィートの高さから

それとなく落下 相対速度は限りなくゼロ

2020

2020年に好きだったものの記録

音楽

  • 火傷に雨/君島大空
  • Siva/BBHF
  • Me & You Together Song/The 1975
  • 何なんw/藤井風
  • The Steps/HAIM
  • Easy Breezy/chelmico
  • アザトカワイイ/日向坂46
  • The Age (feat. BASI, Dhira Bongs & Keishi Tanaka) /Gotch
  • exile (feat. Bon Iver) /Taylor Swift
  • Good News/Mac Miller

今年はなんといってもBBHFのアルバム『BBHF1 南下する青年』なんですが、曲単位で絶対これみたいな感じではなく、アルバム単位での印象のほうが強い。だから曲単位で最初に挙げるならば君島大空の「火傷に雨」になった。脆いけどきれいだから強い、みたいな曲。

あと2020年のリリースじゃないから入れていないけど、11月はBon Iverの『i,i』をずっと聴いていた。リリースされたころにはあまりピンと来なかったけど、おそらくBBHF経由で今年になって好きになった感がある。

Mac Millerは全然知らなかったけど最近教えてもらっていいなと思った。

 

映画

  • ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語
  • TENET テネット
  • 幸せへのまわり道
  • ブックスマート
  • はちどり

結局あんまり新作を見ることができていなかった気がする。とはいえ映画館にはけっこう行った。ジブリやノーラン作品のリバイバルが多かったから。『もののけ姫』は今回のリバイバルで初めて見たし、『インセプション』や『インターステラー』といった大好きな作品をIMAXで見ることができるという幸運にも与った。

あと上に挙げた以外にもおもしろかったものはあるが、いま振り返って好きだとすぐに思えるのはこの5本だったのかな。正直あまり真剣に考えてリストアップしていないかもしれない。 

『Little Women』は今後感想が変わっていきそうな作品ではあるけれど、めちゃくちゃ泣いちゃったので僕の負けです。『TENET』はわくわくさせてくれてありがとうという気持ち。『幸せへのまわり道』は自分の男性性とどう付き合っていく?という自分のなかで大きくなりつつあったテーマにタイミングよく打ち返してくれた作品だった。

 

今年フラスコ飯店で書いた記事

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そうか、〈くよくよ〉というテーマを明確に掲げ始めたのも今年に入ってからなのか。もっと前な気がしていた。

 

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これはかなり読まれました。固いし長い記事なのにけっこう読んでもらえて、自分の書く記事に多少なりとも価値があるのかと思えた。

 

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逆襲書くの楽しかったな。手帳にメモを書き殴りながらのブレスト方式でやった記憶があるし記録がある。逆襲へのアツいお返事をくどうさんからもらったのも感動した。

 

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わた藤(後述)を編集しながら出たアイデアと好きな作品を詰め合わせた、個人的な好みが色濃く出ている定食。イラストがめっちゃお気に入り。

 

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これとか下にある『星の子』は、編集長から「これ、どう?」みたいに提案もらって見に行って、わりとすぐに書いて出す、ということをできた優秀な記事です。いつでも、どんな作品でも書ける、になりたいけど全然無理〜〜なので、そこに向かうべく踏み出した記事でした。

 

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これは企画も出さないまま勝手に書いて、編集長に売り込んだ記事でした。初めてのパターン。気に入ってる。

 

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これもお気に入り。僕は好きな映画のことは逆に書けないタイプなんですが、これはちゃんと書けたし、突飛で独創性のある読みとかでは全くないけど、意外と言われていなそうな大事なことを自分なりには書けたと思っている。名刺代わりにしたい記事。

 

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先ほど『マザー』でも書いたけど、フットワーク軽く書けたという点で評価したい記事。とにかく書き続けるしかおもろいもの書く術はないのだろうなと実感した。

 

〈わた藤〉の編集

今年のフラスコ飯店を語る上で外せないのが、わじまが書いている連載「わたしがグダグダうじうじしていることは大抵すでに藤原基央が曲にしている」ですね。企画段階からいっしょに詰めていきました。5月に1曲目「ディアマン」を公開してから1、2か月に1曲ずつくらいのペースで4曲公開し、5曲目を準備しているくらいのタイミングで、スキャンダルが発覚。どうしようか、と相談したけれど、やっぱりあの問題に触れずになかったことにして続けるのは僕たちがフラスコ飯店ですべきことではない、ちゃんとそれについて考えて、向き合って、記事にすることこそ僕たちがやるべきことだと思い、準備を始めた。

しかしいっしょにやっているとはいえ、書いているのはわじまなので、わじまの苦しみを本当のところは知りようがない。3か月くらいかけて書いてもらって、そのあいだにも夜な夜なオンラインでうんうん唸りながら考えたり、構成を練って文言を練って、めちゃくちゃがんばった。でも僕はすごく楽しかった。それは編集という立場だったからこそかもしれない。わじまには最高級品質の拍手を送りたい。

そして長くてややこしくて重い記事をポップに読みやすくするために、くどうさんがビジュアル面でディレクションしてくれたのも大きかった。毎度まいどアイキャッチイラストのアイデアをいくつも出してくれて、この連載への愛を感じています。

ひーひー言いながらみんなで必死に作った記事が完成した。これです。

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がんばった甲斐あって、めちゃくちゃ読まれている。反響も大きい。うれしい。

 

2021年は就活と修論の1年になります。がんばるぞ〜〜

郷愁と臆病

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 もうすぐ21になる。

 ハタチになる年にこのブログを書き始めて、ハタチになるときにも記事を書いたりした。

 ハタチになるのは人生においても一つの大きな区切りだし、何より「ハタチ」という言葉の持つ響きは幻想的で、幾分ファンタジーの世界に足を踏み入れるような気分でいた。

 そしてまた一年は過ぎ、一つ年を取る。

 ハタチが幻想なら、21はもう現実だ。

 目の前に迫った現実に対する不安に負けてしまいそうな自分が時折現れるので困る。思っていた以上に臆病な自分に気づく。いつからこんなに弱くなってしまったのか。

 

 

 先日、久しぶりに映画『ニュー・シネマ・パラダイス』を見た。

 前に見たのは大学に入ってすぐの夏頃だったと思う。授業後に友人と二人で大学の図書館で見た。その頃はまだ実家から通っていて、長い通学時間とつまらない授業に辟易としていた頃だった。溜息をよく吐いていた。

 二年ぶりに見たあの映画は、全然違うものに見えた。

 「帰ってくるな。私たちを忘れろ。手紙も書くな。ノスタルジーに惑わされるな。すべて忘れろ」

 アルフレードが旅立つトトに言うこの言葉が、新鮮な感慨をもって胸に刺さる。

 一年と少し前、僕は一人暮らしを始めた。初めて一人になった。何者かになるためには一人にならなくてはならないと思っていた。そして大きな自由を手に入れ、同時に大きな寂しさを手に入れた。

 下宿とはいえ、実家からはさほど距離は離れていない。あれほど苦痛だった通学時間だが、たった二時間電車に乗るだけで実家に帰れてしまう。僕はトトのようにはできなかった。

 一人になって、考え悩み、答えのない渦の中に陥ることが多くなった。何も考えず、何も悩まない人を羨ましく思う反面、そうはなりたくないとも思っていたから、これは自分で望んだ結果なのかもしれない。だけど僕は、自分一人で答えを出せるほど強くないし、賢くもなかった。そのことに、一人になって一年かけて、やっと気づいた。

 当然、本当に一人きりな訳ではない。大学にも友達はいるし、高校時代の友達とも会っている。だけど今思えば、大学入学という新しい環境に飛び込むときに、自分の居場所を作る努力を怠っていたのかもしれない。子供らしい無敵さも、クラスという不可避な制度も失って初めての、新たな環境への参入だったのだ。そのことにあまりにも無自覚だった。

 僕の周りにはアルフレードのような言葉で送り出してくれる人もいなかった。仮にあの言葉をかけられたとしても、それに耐えうる強い覚悟を持てただろうか。でもあの言葉を受け止めて19歳を迎えていたら、何か違ったのかもしれない。

 僕も友達も、あと二年もすれば就職したり、新たな道に進む。人生はずっと繋がっているし、繋がっている限り変わらないと思い込んでいた。今周りにいる人は、この先もずっと、僕の周りにいるんじゃないかと思っていた。でもそれは、期限付きのことだった。今までだってそうだったのに、どうして忘れてしまうんだろう。

  そしてその期限が、もうすぐ目の前まで迫ってきているのかもしれない。

 

 

 僕はきっと、少しずつ賢くなってきたはずだ。でも賢くなるほどに、臆病になった。動けなくなった。それは賢くなるほど知らないこと、理解できないことが増え、何が正しいか、何が間違っているかがわからなくなったからだ。でもそれって、賢くなんてなっていないってことなんじゃないのか。賢くなれば、自分のことがわかると思っていた。まだまだ道のりは長いようだ。

 

 僕はノスタルジーに惑わされずに生きていけるのか。

 

シンギュラリティのその先は—サマンサとエヴァとポナンザに会って

 

 僕は高校二年生まで、自分が理系であることを疑わずにいた。それは、父親がそうだからだったし、数学はそんなに得意ではないけれど、理科は苦手ではなかったし、少なくとも嫌いではなかったからだった。だから進路を選ぶときも、工学部や理学部なんかを調べたり見に行ったりしていた。だけどちっとも惹かれなかった。何にも興味を持てないし、当然進路に迷った。

 そして気付く。自分は理系ではなかった。

 受験勉強としての理科は面白いし興味を持てた。でもそれはゲームだからだった。科学的な原理にも関心はあったしなるほどすごいと思いながら授業を聞いていたけど、そこまでだった。その先に自分の興味はなかった。というよりもむしろ、その先には恐れがあった。

 科学が無際限に発展していくことへの漠然とした恐れだった。

 そんなのはバカで無知な若者の戯言だと自分で思う。なぜなら、科学のなんたるかを何も知らないからだ。

 実際、iPS細胞ができたときもすげーと思ったし、はやぶさが帰ってきたときもすげーと思った。それらによってわかったこと、その先にあるものが人を、もしかしたら僕を救ってくれるかもしれない。なんならすでに僕はそういったものの恩恵を受けていま生きていられている。僕は生まれたとき、心臓に小さな穴が空いていた。割とよくある疾患ではあるみたいだが、一応死にかけた、らしい。当然記憶はないので、胸に残った手術の痕が僕の記憶の代わりをしてくれている。

 現代の医療に命をいただいている身なのだから、科学の持つ力の素晴らしさに心を震わせて、なんなら医学を志したってなんの違和感もない。

 なのに僕はそれが怖かった。

 しっかりとした理論があって科学の発展は良くないことだと言っているわけではないのだからタチが悪い。だけどとにかく、自分がその発展に貢献することはなんだか気が進まなかった。というよりも、その責任を負うのは嫌だった。その道に進んでいたら、きっとその責任に苛まれるだろうと予感したのかもしれない。

 

 シンギュラリティという言葉がある。AIが人間の知性を超えることである。

 AIは当時からすでに騒がれていたけれど、ここ最近はさらにその注目が加速しているようにも感じる。

 シンギュラリティについて語るとき、必ずと言っていいほど、「人間は滅びる」という言葉が伴う。それはもっともで、人間の知性を超えてしまったら、「人間の知性を超えたらどうなるのか」を人間には予測できない。AIが人間を敵視するかどうかはわからないけれど、今と同じような世界ではなくなるだろう。

 でもそれは、これまでに発展してきた諸科学が世界に与えてきたものと、どれほど違う変化なのだろう?これまでも変化してきたのだから、その一環に過ぎないのかもしれない。僕が単に保守的で、懐古趣味の強い人間なだけかもしれない。でも、怖い。

 

 僕がなぜこんな話をしているかというと、ここ数日に見た二本の映画が、ともに人工知能を題材にしたものだったからだ。『her』と『エクス・マキナ』だ。

 

 まずは『her』。


her/世界でひとつの彼女(予告編)

 『her』はある男性が人工知能、正しく言えば人工知能を搭載したOS、サマンサと恋をする物語である。

 映画としては、これでもかというくらいにカラフルで美しい、どこか透明な色彩に彩られた画面と、カナダ出身のインディー・ロック・バンド、Arcade Fireによる瑞々しい音楽、そしていちいち気の利いた、哲学チックなセリフたち、と、とてつもなく”おしゃれ”な映画である。それだけでも十分に見る価値のある映画だと思う。あとは人工知能役のスカーレット・ヨハンソンの声だけの演技も見もの、もとい、聞きもので、誰よりも人間らしいと感じてしまうほどの立体感に引きずり込まれる。

 

 では次。『エクス・マキナ』。


人工知能の未来『エクスマキナ』予告

 この映画は、世界的な検索エンジンの会社の社長が、一人の社員に人工知能エヴァのテストをさせるお話。彼女を人間だと感じられるかどうかのテスト。

 圧倒的な映像美。大自然の中に作られた現代建築的な極秘研究施設。でもそこには中庭があったり室内を大木が貫いているようなかたちになっていたりと、自然と人工物の対比だけでなく、その融合の美しさも映像に現れている。そこには人工知能という主題の扱い方も関係していて、非常におもしろい。

 

 どちらの映画も、シンギュラリティのその先を描いたものだと言えるだろう。でもその方向性はかなり異なっているとも言えるし、共通点があるとも言える。

 人工知能は天使なのか、悪魔なのか。

 

 先日放送されたNHKスペシャル人工知能 天使か悪魔か 2017』では、棋士羽生善治氏がナビゲーターとなって、人工知能の最先端が紹介された。中でも興味深かったのは、電王戦。つまり、人工知能と、人間界最高峰の棋士の直接対決である。ポナンザと名付けられた将棋用人工知能は、過去五万の将棋の棋譜をデータとして学習し、さらには700万を超える自己対戦、人工知能人工知能での試合を行なっている。そんなポナンザが名人・佐藤天彦氏との電王戦第一局、第一手目に指した手は、ポナンザが学習した過去五万試合には一度も存在しなかった第一手だった。将棋のセオリーや定石からは考えられない手で、早くも人間の頭脳を引っ掻き回し始めた。結果は、ポナンザの勝利で幕を閉じた。

 僕が棋士だったら、きっと絶望してしまう。しかし、羽生さんも佐藤さんも、そうではなかった。両氏共、AIの指す将棋に学ぼうとしているのだ。人間の積み上げてきた将棋の歴史、そこから考えられてきたあらゆる手。それらを遥かに凌ぐ速さと独創性で目の前に立ちはだかってきた人工知能。その存在に絶望するのではなく、人間の実力を伸ばすために取り入れようとしているのだ。

 佐藤氏の言葉が印象に残っている。

 「人間同士でやっていると気がつかないうちに、将棋の宇宙の中のある一つの銀河系にしか住んでいない感じになっていく。もっと広い視点で見ればいろんな惑星がある。(ポナンザとの戦いを通して)今まで気づかなかった自分自身の持っている面にも気づかされた」

 

 『エクス・マキナ』の中で、人工知能の進化は、生物の進化の文脈にあるという趣旨のセリフがあった。

 人工知能は人間が作り出した機械であることを超えて、新たな生命体として、人間がたどり着けなかった新たな銀河へと人間を連れて行ってくれるのか。それとも人間を置きざりにしていくのか。天使なのか、悪魔なのか。まだわからない。

 わからないことは、怖いことだ。でももう止められない。止めることが善でもない。

 シンギュラリティのその先を、僕たちは見届けられるだろうか?