九六フィートの高さから

それとなく落下 相対速度は限りなくゼロ

郷愁と臆病

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 もうすぐ21になる。

 ハタチになる年にこのブログを書き始めて、ハタチになるときにも記事を書いたりした。

 ハタチになるのは人生においても一つの大きな区切りだし、何より「ハタチ」という言葉の持つ響きは幻想的で、幾分ファンタジーの世界に足を踏み入れるような気分でいた。

 そしてまた一年は過ぎ、一つ年を取る。

 ハタチが幻想なら、21はもう現実だ。

 目の前に迫った現実に対する不安に負けてしまいそうな自分が時折現れるので困る。思っていた以上に臆病な自分に気づく。いつからこんなに弱くなってしまったのか。

 

 

 先日、久しぶりに映画『ニュー・シネマ・パラダイス』を見た。

 前に見たのは大学に入ってすぐの夏頃だったと思う。授業後に友人と二人で大学の図書館で見た。その頃はまだ実家から通っていて、長い通学時間とつまらない授業に辟易としていた頃だった。溜息をよく吐いていた。

 二年ぶりに見たあの映画は、全然違うものに見えた。

 「帰ってくるな。私たちを忘れろ。手紙も書くな。ノスタルジーに惑わされるな。すべて忘れろ」

 アルフレードが旅立つトトに言うこの言葉が、新鮮な感慨をもって胸に刺さる。

 一年と少し前、僕は一人暮らしを始めた。初めて一人になった。何者かになるためには一人にならなくてはならないと思っていた。そして大きな自由を手に入れ、同時に大きな寂しさを手に入れた。

 下宿とはいえ、実家からはさほど距離は離れていない。あれほど苦痛だった通学時間だが、たった二時間電車に乗るだけで実家に帰れてしまう。僕はトトのようにはできなかった。

 一人になって、考え悩み、答えのない渦の中に陥ることが多くなった。何も考えず、何も悩まない人を羨ましく思う反面、そうはなりたくないとも思っていたから、これは自分で望んだ結果なのかもしれない。だけど僕は、自分一人で答えを出せるほど強くないし、賢くもなかった。そのことに、一人になって一年かけて、やっと気づいた。

 当然、本当に一人きりな訳ではない。大学にも友達はいるし、高校時代の友達とも会っている。だけど今思えば、大学入学という新しい環境に飛び込むときに、自分の居場所を作る努力を怠っていたのかもしれない。子供らしい無敵さも、クラスという不可避な制度も失って初めての、新たな環境への参入だったのだ。そのことにあまりにも無自覚だった。

 僕の周りにはアルフレードのような言葉で送り出してくれる人もいなかった。仮にあの言葉をかけられたとしても、それに耐えうる強い覚悟を持てただろうか。でもあの言葉を受け止めて19歳を迎えていたら、何か違ったのかもしれない。

 僕も友達も、あと二年もすれば就職したり、新たな道に進む。人生はずっと繋がっているし、繋がっている限り変わらないと思い込んでいた。今周りにいる人は、この先もずっと、僕の周りにいるんじゃないかと思っていた。でもそれは、期限付きのことだった。今までだってそうだったのに、どうして忘れてしまうんだろう。

  そしてその期限が、もうすぐ目の前まで迫ってきているのかもしれない。

 

 

 僕はきっと、少しずつ賢くなってきたはずだ。でも賢くなるほどに、臆病になった。動けなくなった。それは賢くなるほど知らないこと、理解できないことが増え、何が正しいか、何が間違っているかがわからなくなったからだ。でもそれって、賢くなんてなっていないってことなんじゃないのか。賢くなれば、自分のことがわかると思っていた。まだまだ道のりは長いようだ。

 

 僕はノスタルジーに惑わされずに生きていけるのか。

 

誰にも会わない日

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 一人暮らしを始めて一年が経とうとしている。

 僕より少し遅れて入居してきた隣の部屋の住民とは、いまだに面識がない。とはいえ、同じ大学の学生で、おそらく同じ学年、なんならあいつかなくらいの見当はついている。なぜそう思っているかは忘れてしまった。もうひとつ知っていることがある。歌が下手だということだ。毎日まいにち彼は夜中になると歌い出す。それが深夜一時とかなのだ。壁が薄いことはお互い知っているだろうに、分別というものがないのか。しかも無理のある高音でワンオクロックやユニゾンスクエアガーデンを歌うのだ。まったくもって不愉快としか言いようがない。ついに耐えかねて、数日間24時になるころに壁を叩いて、「はい、もうお時間ですよ」とお知らせすると、真夜中には歌わなくなった。そう、真夜中さえやめてくれればいいのだ。お互いにやりたいことはあるだろう。だからこその思いやりと歩み寄りが必要だ。よろしく頼むよ。

 ご近所付き合いという関係性は、一人暮らしの生活にはほとんど関与してこない。二部屋三階建ての小さなアパートの隣人でさえそうなのだから、むべなるかな。ゴミ出しの時にお向かいのおばあさんと挨拶を交わすくらいのものだった。しかし、それが少しだけ破られることがあった。きっかけはひょんなことだった。玄関前に干していた傘が風で飛んで、隣のお家のベランダに落ちてしまったのだ。出先で知らされ、乗り込んだバスの座席では気持ちが焦るばかり。何かお詫びの品とか持っていった方がいいのかな。一度自室に戻りついて気持ちを整えてから訪問すると、気の良さそうなおばあさんが出てきて安心する。怒られるというよりはおしゃべりをするような形になり、安堵とともに健やかな心持ちがしてきた。これは知らない人が知っている人に変わる瞬間だったからかもしれない。それからは家の前で顔を見ると自信を持って挨拶ができるようになった。

 誰にも会わない日がある。外に出ていようがなかろうがあまり関係はない。知らない人との間には透明な壁があって、視線はその上を滑るだけだ。透明な壁に日々守られながら、それでも心許なく感じてしまう。だから、その壁と壁とがゆるりと融け合い、上空に昇華されていく瞬間には、健やかな喜びが咲くのだろう。そしてそれは案外、難しいことではないのかもしれない、と思う。

 

 *

 

 大阪から京都へ向かう特急電車のなか。その日の僕は、座席で大学のレポートを書いていた。隣にはおじいさんが座っていた。そのおじいさんはそこで何をするでもなく、それでいて無為を持て余しているふうでもなく、窓外を眺めていた。電車は正確に進み、やがて地下へと入っていった。その頃にはレポートは書き上がり、僕は何を考えるでもなくぼんやりとしていた。ふと、隣のおじいさんのことが気になった。この人はいま、どういうことを考えているのだろう。どんな日々を過ごしてきて、いまからどこへ向かうのだろう。話しかけてみようか、とさえ思った。こんなに近いのに、こんなにも遠い。透明な壁は融け合わず、音もなくすれ違う。最初の一分子が輪郭を失うきっかけは、大したことではないのかもしれない。それでもその一分子を見つけることができない。

 そうこうしているうちに、おじいさんは「失礼」と言って席を立つ素振りを見せる。反射的に僕も席を立ち、通路を譲る。そのままおじいさんはホームに降り、近くのエスカレーターへ向かっていく。黒くて長い、小綺麗なコートを着た、その顔を見る。なぜか知っている人のような気がする。よく見ると、ああ、そうか、それは、僕だった。

 エスカレーターに一歩目を踏み出す。何とはなしに振り返る。終着駅へと向かうトンネルに吸い込まれるため、電車が鈍く動き始めるその中に、あの頃の僕がぼんやりと座っているのを、見た。

知らない

 電車に乗って窓の外を見る。近くのものは速く、遠くのものはゆっくりと、後ろへ後ろへ流れていく。僕の瞳孔は必死に追いつこうと運動を繰り返す。けれどもやっぱり追いつきやしない。遠近に騙され裏切られ、休まることはない。

 それでも僕は、流れる景色をどうしようもなく眺めてしまう。どうしてなのか、なんだか切ない気持ちになる。知らない、でも見慣れた町を、知らないそのままで流していく。

 知らないというのは寂しいことなのかもしれない。知り得た、そして知り得る全ての可能性に、目をつむりながら気づかないふりをすることだから。でも、そうするほかないこともある。そうでないと僕らは移動できない。止まれない、と思ってしまう。「本当は止まれないことなんてないのにな」と、通り過ぎてから思う。

 「時間と空間は昨日死んだ」これは未来派の詩人マリネッティの言葉だ。科学技術の進歩とともに、移動手段の高速化が一気に進んだ。今となってはインターネットがあるから、その死もさらなる深みに達している。時間と空間は一昨日死んだ。

 生活が猛スピードになればなるほど、僕らには時間がなくなる。おかしな話だ。だけどそれが「現実」だ。日本の電車は正確に、時刻表通りの時間にやってきて、出発する。僕は早めの時間に駅に着いておく、ということができないタチで、そのくせ乗り損ねると自分にバチギレるという悪癖を持っているが、目の前で扉が閉まることなんてザラにある。そして思う。あと一秒早ければ、あと一歩早く走り始めておけば、と。まあこれは僕がアホなのが唯一の原因なのでよしとして、それでも「1秒」のために止まれない現実があるように思う。その窮屈さを思う。

 

 12月に入った。冬の日光は薄くて白くて、眩しい。太陽の角度が低いため、目に飛び込む光の量が多くなる。あらゆるものに影を投げかける。冬には冬の世界の見え方がある。冬の色がある。冬の反射がある。

 その日も僕は電車に乗り、窓の外の光の反射を目で追っていた。遠くを、そして近くを。遠くに焦点を合わせていると近景は線のつながりの残像としてしか知覚できないけれど、しっかり目で追ってやれば、思ったよりもゆっくりに見える。

 白い街並みの反射を眺めていると、ふいにそこにいる人の姿に目が捕らえられることがある。その日僕の目を捕まえたのは、クリーム色の古いアパートのベランダで、組んだ腕を手すりに載せ、右を向いた顔をそこに埋めている男性の姿だった。なぜか鮮烈にそのシーンが胸に飛び込んできて、止まることのない電車の中から、ゆっくりと目で追った。彼はどうして、あの冷たい空気のなか、あの薄くて強い光のなか、ベランダに立っているのだろう。きっと何か、ベランダでなければ落ち着けられないものが彼の内側に渦巻いたのだろう。赤いセーターを着た彼は、僕が見ていたことなど未来永劫知ることはない。けれど、僕の中にはもうしばらくあのシーンが滞在するように思う。それがどういう意味を持つのか、僕にはわからない。

    知らない町の、知らない誰かの、知らない心模様を思う。