九六フィートの高さから

それとなく落下 相対速度は限りなくゼロ

円城塔『道化師の蝶』を読む——「わたし」のメタは滅多打ち

円城塔『道化師の蝶』を読んだ。

読んでしまった、と書いたほうがより正しいのかもしれない。

 

表題作「道化師の蝶」、そして「松ノ枝の記」の二本の短編が収録されており、「道化師の蝶」は第146回芥川賞を受賞している。

円城塔という名前は知っていたが読んだことがなかったから、古本屋で見つけたときに買ってみたのだ。というのも、表紙がハッとするほど美しいから。表紙の装丁、もはや背表紙の印象でその本を読むかどうか決めてしまうことが多く、そういう意味で惹かれたことは多分にある。

f:id:kakkoiikakko:20171027180203j:plain

読み始めて数頁で、こんな文章は読んだことがない、と思う。書いてあることが、文章の組み立て方が。情感のない、翻訳体のような文体(もちろん、翻訳物の文章に感情が感じられないということが言いたいわけではない)。口から出まかせが溢れ出しているような、突拍子も無い会話。そういう日常とかけ離れた要素に夢中になって読んでいると、第二章(正確にはⅡ)が始まり、頭の中が掻き乱され始める。

 

結果、終始頭と意識と言語理解をひっくり返されながら最後まで読まされた。しかし、わかりはしない。それがこの物語の異様なところだ。複雑な伏線を張り巡らせ、最後に大回収して物語としてまとめる、という通常のプロセスを踏んではくれない。最終的に発散させたまま終わらせるのだ。その結果、読者はすぐにもう一度読むことになるし、何度読んでも同じようには感じない。二回読んだが、またそう遠く無い未来に読み直すだろうと思う。なぜなら、どこかがわかった気になると、また別のわかったと思っていたところが疑わしくなってくるからだ。永遠に捕まえることができないとさえ思う。ウロボロス

 

 

この物語の特異性は何か。非力ながら少し書いてみたい。

 

とにかくこの物語とその構造は、読者の無意識を欺いてくるのだ。

物語を読む読者にとって、一番無意識なこと。それは”地の文”というものだ。

物語が書かれている以上、そこには当然地の文があり、視点というものが立ち現れる。地の文は誰の視点なのか。「道化師の蝶」は全部で五つの章からなり、すべて「わたし」という視点から書かれている。相当奇特な者を除けば、読者は当然、最初から読み始める。そしてそこに現れてくる「わたし」こそこの物語の主体であり、読者が取るべき視点だと思う。そういうふうに本を読むことを教わっている。言い換えれば、そう思い込まされる。そしてそこにまず立ち上がる世界こそ、この物語の世界だと思う。または思い込まされる。「男が座っている」とあれば、「男が座っている」のだと思う。以下同文。それが普通のことであり、それは、それが前提とならなければ、物語の世界は錯綜してしまうからだ。

そうして、錯綜させられる。何度も。多重に。

この記事にはネタバレをする意図はないから、具体的な話には踏み込まない。実際に読んで、振り回されて欲しい。とても楽しいから。

 

もう一つ、予備知識としてあってもいいと思うのは、ロシア人文学者、ウラジーミル・ナボコフのことだ。「ロリータ・コンプレックス」の語源ともなった小説『ロリータ』の作者として有名な小説家だ。作者・円城塔のインタビューで、この物語はナボコフの長編小説『道化師をごらん!』の単行本の見返しに描かれた蝶のスケッチをモチーフとして書かれたことが明かされている。そしてナボコフとこの物語の共通点はそれだけでない。ナボコフの作風として挙げられるのが、文学的仕掛けの「難解さ」と言葉遊びである。これはちょうど「道化師の蝶」の特徴と重なる。さらにナボコフは鱗翅目研究者でもあった。要は蝶の専門家である。このようにこの物語とナボコフはあらゆる点で重ねられている。付け加えるなら、ナボコフの妻の名はヴェラであることを記憶に留めておくと良い。

 

 

ずいぶんと偉そうに講釈を垂れてみたが、いかがだろうか。ちなみに、この記事の地の文において一人称を使っていないことにお気づきになっただろうか。特に意味はない。ただのお遊びである。

 

 

何が真実なのかわからない。

「わたし」は誰なのか。彼ら、あるいは彼女らは誰なのか。

 

「わかるようにできていないのだから当然だ」

 

あの蝶を捕える網は与えられていない。

『大きい犬』と秋の床

f:id:kakkoiikakko:20170902231933j:plain

 秋が来た。突然やって来た。

 夜すげー涼しい。昼間も真夏の密度がどこかへ行ってしまった。

 僕は夏が苦手なので秋の到来をとても喜んでいるけれども、あまりにも急に夏が去ってしまって、それはなんだか寂しい。あんなにしつこく体にまとわりついてきたじゃないか! あんなに理不尽に体力を奪ってきたじゃないか! しょっちゅうちょっかい出してくるからちょっと邪険にしてた友達が挨拶もなしに引っ越して行ってしまって、めちゃくちゃ仲良かったわけでもないのになんかすげー寂しい、みたいな気分。なんてわがままなんだ俺は。

 

 今日は母が下宿に来てご飯を食べたり散歩したりした。なんて散歩に適切な気候なんだ。気持ちがいい。季節の変化をひとと共有できるだけで、とても楽しくて満たされた気持ちがした。

 散歩いっぱいしよう。

 

 

 8月に誕生日を迎えた妹に、ある漫画を買ってプレゼントしたのだけど、それがあまりにも素晴らしい漫画なのでその良さについて書きたいと思う。

 スケラッコさんの『大きい犬』。

f:id:kakkoiikakko:20170902220528j:plain

 黄緑とオレンジの二色が効いた表紙。そして大きい犬。大きい。家くらい大きい。ちょっとキツネにも見える。ハッハッと置き字がされているのもかわいい。

 この漫画はデザイナー・イラストレーターとしても活動しているスケラッコさんの短編集で、表題作「大きい犬」を含む7作が収録されている。

 「大きい犬」は友人に留守番を頼まれた高田くんが友人宅の近所にいる大きい犬に出会い、仲良くなろうとするお話。高田くんは犬語が喋れる。長いことその場所にいる大きい犬は退屈しているので、犬語が話せる高田くんと仲良くなっていく。しかしある日突然大きい犬がいなくなってしまい……

 この先は買って読んでください。

 正直言って、この短編集に載っているお話全て、ものすごい展開やオチがあるわけでもなく、大きな寓意が秘められているわけでもない。だけど、すごく、いい。

 この良さを言葉にするのはなかなか難しい。

 生きてたら、なんだか空虚な気持ちになることがあるし、それが積み重なると胸の中にザラザラしたひび割れみたいな穴が空いてしまったような感覚になる。だけど僕はとても怠惰なので自分でその穴をなかなか埋められない。

 こういう穴を埋めてくれるのが、やっぱり物語だ。

 僕はこの一冊の漫画に、ザラザラした部分をさらっと撫でられて、滑らかな気持ちになった。やさしいのだ。

 どの物語も設定自体はかなりぶっ飛んでいると言っても過言ではない。だけど、その非日常を非日常として派手に描く漫画ではなく、僕にとっては非日常だけど、彼らにとってはただの日常で、だからいたって平和でありふれた優しさがそこには満ちている。

 

 ある日おじいちゃんが「私は七福神の1人、えびすさまなんや」と告白し、解散していた七福神を集めて福を届ける旅に再出発しようとする「七福神再び」も、給食が大好きで大好きでたまらない少年・ホーライくんが「給食のおばさん」になってみんなが喜んで食べてくれるおいしい給食を考える「給食のおばさん ホーライくん」も。

 拍子抜けするほどささやかで、おだやかで、あたたかい。

 

 晴れた秋の昼下がり、窓を開けて風を通して、床に寝そべって読むと最高だ。

 ぜひ近くの書店で買って、このささやかさに触れてほしい。

 

p.s.

 発売記念のTシャツプレゼントキャンペーンに申し込んだので、近々大きい犬の顔が大きくプリントされたTシャツを着た僕を見かけると思う。だからその時は犬語で話しかけてほしい。

マイ・スウィート・乳歯

 僕の永久歯は4、5本足りない。抜けたとかではなく、そもそもない。これは完全に遺伝だ。例えば上の前歯のすぐ隣が両側ないから、前歯の隣に犬歯がきている。乳歯が抜けた隙間に寄ってきたのだ。おかげで歯を見せて笑うと吸血鬼のような鋭い印象を与えることになる。吸血鬼は言い過ぎたかも。もうちょい間抜けな感じ。

 永久歯の不足と顎の小ささが原因で、噛み合わせもなかなか悪い。多少矯正してもらったおかげで正面から見たら別にそんなに違和感はない程度にはなっているのでさして支障はない。そこは本当に親に感謝している。でも上下の前歯がかみ合っていないので、前歯で肉を噛み切る、みたいなことができない。これは結構不便。上の前歯の方が前に出ているのだ。ちょっと出っ歯気味というか。相対的出っ歯。そのせいか、サ行の発音が苦手だ。これはずっと気にしている。

 

 そんなわけで左下のやや奥のほうの歯も永久歯がなく、未だに乳歯が持ちこたえている状態なのだが、そのかわいい乳歯ちゃんが虫歯になってしまい、いよいよ穴が空いてしまったのだ。実はこれ、もう1ヶ月くらい前からその状態なのである。幸い痛みはなかったが、放置していたらどんどん悪化するだろうし、なにしろ大事な大事なマイ・オンリー・乳歯なわけだから、失うわけにはいかなかった。でも夏休みに入り、帰省やら遊びやら怠惰やらでなかなか都合のいい日がなく(言い訳)、今日やっと、行ってきた。

 実に4年ぶりくらいの歯医者である。実家の頃に通っていた歯医者からなぜか定期健診の案内が来ないことをよしとして、ずっと行っていなかったのだ。僕は割と歯磨きが好きなほうで、いつも10分くらい磨いてしまう(でも歯間ブラシは好きじゃない)。だから(理由になってない)まあ大丈夫だろうと思っていたし、実際大丈夫だった。なのに穴が空いてしまった。というか欠けたのかな? ショックだった。

 

 下宿の近くにある歯医者に今日朝イチに電話すると、朝イチで診療してもらえることになった。急いで髪を整えて向かう。保険証を出して問診を書いて席に通される。あの定番の歯医者チェアに座る。

 僕は昔から歯医者チェアの、コップを置いたら水が出るところが好きだった。久しく歯医者に行っていなかったからそんなことは忘れていた。コップをおかずに指で押して水を出したりして遊んでいた。

 背が倒され、口を開ける。

 これまた久しぶりのことだったので驚いたのだけど、口の中を人に見せるのって恥ずかしいことなのだ。昔はそんなこと考えもしなかったけど、この永久歯の足りない歯並びを、未だに残っている乳歯にあいた穴を、斑らに白くなった舌を、他人に見られることだったんだと思った。そして歯医者さんは毎日何人もの人のそういうものを見ていく仕事だったんだ。

 

 ETの頭のようなライトに口元だけを照らされながら、容赦なく診察は進む。

 歯医者さんは不親切だ。人の歯を見てひたすら一つずつに対してこちらにはわからない言語でコメントして行く。1から4、3。5、E。みたいな(テキトーです)。3ってなんだ、Eってなんだ。こちらは自分の歯に不安を持って歯医者に来たのに暗号ばかりで不安は高まるのみ。まあそれは仕方のないことだと思うけど、今日の歯医者さんは時折「うぅ……」と唸るのである。なに?! なんで唸るの?? そんなにやばいの?? 全部虫歯とか言われたらどうしよう……と半分ベソかきの内心で時が過ぎるのを待った。

 そして言われた言葉は「独特の噛み合わせだね」だった。全部虫歯とかじゃなくてよかったけど、噛み合わせを「独特」と表現されたことはなんだか微妙な感じがした。

 麻酔をして、少し削って、埋めてもらった。埋まった。よかった。たった3000円弱で穴を埋めてもらえるなんて、ありがたいことだと思った。乳歯、大事にします。

 

 麻酔がかかった状態で外に出るの、なんであんなに気恥ずかしいんだろう。

 効果が切れるまでに2時間ほどかかった。かかったままの時にうがいをしたら、くちゅくちゅにあわせて水がぴゅっと出てまた恥ずかしくなった。ひとりだけど。