九六フィートの高さから

それとなく落下 相対速度は限りなくゼロ

反則と罰則と変速

僕は京都の大学に通っている。

今日は授業と授業との間の空いた時間に、自転車で三条の駅前にあるブックオフに行った。

最近なんだか物語に飢えていた僕は、古本をおもうさま買い漁ってあらゆる膿を蹴散らしてやろうと考えたのだった。

自転車を止めて、半時間ほど物色し、思った以上の収穫に満足して店を出ると、自転車がない。そこに止めてあるはずの水色のチャリンコがないのだ。あるはずのものがなくなっている時の、急に知らない世界にぶち込まれる夢にも似た絶望感。すでに次の授業まで四半時間をきっていて、焦る。さまざまな焦りが一挙に押し寄せるから、僕のもともと小さいキャパシティは即座にクライマックスを迎え、まず何をしたらいいのかわからない。え?自転車どこ?どこ?はへ?

 

撤去されてました。

いや、間違いなく僕が悪い。間違いないね。世の中は不確かなことだらけだけれども、これだけは確かだね。

保管場所は、なんと、十条。

十条なんてあったの??!

ご存知の通り、京都市内には東西に走る通りが南北にたくさん並んでいて、御所から南にゆくに従いその数字が大きくなってゆく。

つまり、十条は、三条よりも、七条分も、南だということ!

行きました。五限が終わってから、暗くなって行く鴨川沿いを電車で下りました。

 

先述の通り、この撤去事件については、全ての責は僕にあり、疑いようはない。

だからこそ僕は、ビビっていた。

係りの人にあられもないくらいにどやされるんではないだろうか?最近ご無沙汰している冷淡極まりない目線で長々と説教を垂れられるのではなかろうか?手続きに必要なお金はやはりお釣りが出ないようにぴったり用意すべきだったんではなかろうか?

 

全然そんなことはなかった。

係りの人は、物腰の柔らかそうなおじいさん二人だった。

むしろ、自転車まで案内してくれたおじいさんが、自転車にはっつけてあった管理のためのシールを剥がすのに苦戦していたから、僕が適当で大丈夫ですよというと、いやこれのバーコードが必要やからちゃんと剥がさんとあかんねん、あ、そうなんですか、じゃあ大事ですね、みたいに会話したりして、中身は特におもしろくもなんともないのだけれど、なんだか嬉しかった。

帰りの安全まで願ってもらって、その場を後にし、すでに薄暗くなった知らない街を、知っている水色の自転車の上で歌いながら九条ほど北上し、うちに帰った。

もう撤去されないようにしよう。

一回性と二回生

新学期が始まった。僕は大学二回生になった。

去年はなんだかなんにもしないまま時間が過ぎていく感覚だけが痛いほど鮮明で、自分はこんなんで大丈夫なのか?と落ち込んでいた時も多かった。

 

kakkoii-kakko.hatenablog.jp

 自分がどんどん時間を無駄にして捨てていってるという思いがぐるぐると頭の中を支配していた時期だった。

でもいま考えれば、その時期にぐるぐると考えていたことはいまのスタンスになっているし、高校生までの自分が全然気づいていなかったようなことをたくさん考えるようになった時期だったから、なんだ、全然無駄じゃなかったじゃん!と思えるようになった。

あとはその時の経験を活かして、面白い授業しか受けないぞという覚悟ができた。まあできるだけなんだけれど。でもそれができやすい学部に入った自分を褒めたい。

 

今年はもっと活動をするぞ。なんやかんやと。

 

まずはお勉強。

去年の後期に、社会学という学問に出会った。これがめちゃくちゃ面白いの。

社会学は、学問というよりも、ものの見方、思考法といったほうが近い気がする。目の前にある現実を、理解したり解釈したりするための道具であり武器。社会学の面白いのは、”脱領域”的なところ。研究分野が全然限定されていなくって、社会学アイデンティティはそこではなく、その意識、社会学感覚なのだ。

だから社会学的なものの見方を使って、なんだって分析することができる。

それってすごくないですか?こんなに使える学問他にないでしょ!と思いました。

去年大ヒットした映画『君の名は。』はなぜヒットしたのか?

なぜビートルズマイケル・ジャクソンはカリスマとなり得たのか?

なんてことも社会学的に考察することができる。というのもこれらは僕が実際に去年の講義で聞いたものだからだ。めちょくちょ面白かった。

だから今年はまず社会学を中心に、しっかり勉強していこうかなと思っています。

 

次は何と言っても文化的素養を深めていきたい。

音楽・映画・小説、そこに短歌も。エンタメ。文化的娯楽。

最近舞台見にいってないな。近々KAJALLA行くけど。

人生は一回きりですものね。できるだけ多くの、できるだけいいものに触れていたい。

 

そんなこんなで。バイト探してます。

淵に立ってる

映画を見た。『淵に立つ』という作品。浅野忠信が主演になるのかな?エンドロールの最初の名前は浅野忠信だった。

ある家族のもとへ1人の男がやってきて、あらゆる物事が歪んで崩れていくお話。

全然ハッピーなお話ではなく、全てがスッキリする展開もない。見るものを打ちのめすタイプの映画だった。

 

タイトルの”淵に立つ”という言葉は自分にとってすごくしっくりとくる言い回しで、それはこの作品の物語にとって、というよりも僕自身にとって、僕がしばしばとらわれる感覚にとってしっくりとくる、という意味。

つまりはギリギリのところに自分がいるんじゃないかということなんだけれど、それはそれ以上でもそれ以下でもなく、自分は今たまたま生きていられているな、という事実。そこにありがたいとか感慨みたいなものはなくて、ただその観念に五感が取り憑かれてしまってぼーっとしちゃうだけなんだけれど。

でも普通に自分の命を生きている時には、いま自分がどこにいるのかはわかんなくて、だからこそギリギリなんだろうけど、それが見えるのが映画の面白さなんじゃないかなと思ってる。

映画の中の登場人物たちは、彼ら彼女らの自分の命を生きているから、自分がどれだけギリギリのところにいるのかは見えていない。でも僕らには見えている。視座が限りなく神に近いから。だからこちらはその切実なギリギリさに心を使ってその作品を受容するんだなあ、と。

他人の人生を見せてもらって、そのギリギリな切実さに心を燃焼させることこそ、僕が物語を食べる理由なんだろうな。