九六フィートの高さから

それとなく落下 相対速度は限りなくゼロ

夏は夜、ベランダの洗濯機の上

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 どうやら梅雨が明けたようだ。明けましておめでとう。

 家を出て、あれ?これ夏じゃない?と思ったらやっぱりそうで、梅雨明けの日の朝だった。

 僕は梅雨が嫌いだから毎年頭を抱えながら早く前線が通り過ぎていくのを待っている。天然パーマの僕にとって、湿度は敵である。ジメジメは身体にも良くないしね。

 でも今年の梅雨は案外さらっと駆け抜けていったように思う。それはどうやら間違っていないようで、ニュースでも水不足の心配があることが報道されていた。水不足という現象があることは頭でわかっているけれど、やはりどこか他人事のように思っている自分に気づく。

 

 暑いのは苦手だ。だって暑いのはどうにもならない。寒いのは服を着たりお風呂入ったり布団に入ればほかほかになれる。暑いのはもう裸になっても暑い。クーラーをつけるしかない。死をより感じるのは夏だ。単に根性無いからなのか?

 そんな夏だが、ひとつ、いいことを発見した。

 

 僕はいま、三階建ての小さなアパートの三階で一人暮らしをしている。南向きで目の前に建物もないから、日当たりは抜群にいい。そのおかげで、外から部屋に帰ると、毎回室内の熱気がものすごいことになっている。こもりにこもっているから、いつも一人で「うええーっ」って言ってしまう。まずは窓を開けて、玄関も少し開けておいて、なんとか空気を入れ替えようとする。しかし、なかなか都合よく風は吹いてくれない。そこで気付いたのだけど、どうやら僕の住んでいる地域は南北より東西方向のほうが風が吹きやすいようだ。実際、ベランダに出て見ると風がとても気持ちいい。とくに夜風は素敵。クーラーの壊れた飲食店でのバイトの疲れを忘れられるくらいだ。

 バイト帰りに買った缶チューハイを持ってベランダに立つ。東側には大文字山のシルエットが綺麗に見える。ベランダの一番東側の端っこには、洗濯機が置いてある。リサイクルショップで買った、絶賛活躍中の洗濯機だ。雨にさらされながらいつも頑張ってくれているのでかわいい。その健気さに敬意を表しながら、僕は彼の上によじ登り、熱って汗ばんだ尻を容赦無く蓋の上に乗せる。ちょうど背もたれとして良い塩梅のところに手すりがある。手すりに背中を預け、仰け反る。山から吹き降りてくる心地よい強めの風と夜だけど白く光る雲。

 なんだかとても、まともな気分になる。いま、自分はひどくまともだ、と感じる。

 誰も見ていない(だろう)ことをいいことにパンツ一丁でベランダに君臨し、グレープフルーツの缶チューハイを飲んでいるこの僕が、いま、世界で誰よりもまともだと確信する。

 息を吸って、吐く。息を吸って、吐く。

 自分がまともだなんてなかなか感じられずに生活していたことに気づいて、少し笑う。

 

 夏は夜。ベランダの洗濯機の上。缶チューハイもあるとなおよし。人工甘味料の入っていないもので。

 

時限爆弾は作動したか?

 

 先日、友人と鎌倉へ行ってきた。元来出不精である私にとっては実に久しぶりの旅行で、紫陽花を見に行くというのが口実だった。

 それに際して、私はインスタントカメラを持って行った。この国民総スマホカメラマン時代になぜインスタントカメラ?と思う方もおられるかもしれないが、実はいま、インスタントカメラはけっこうな流行りを見せている。

 平成生まれの私は、当然インスタントカメラがリアルタイムな世代ではない。私がインスタントカメラいいかもと思ったのは、奥山由之という写真家を知ってからだ。奥山由之はそれこそいま一番流行りの写真家で、きのこ帝国やnever young beachなどの若手バンドのCDジャケットや、アクエリアスのCMなどに起用されている、まだ20代半ばの若い写真家である。私が彼を知ったのは、私の大好きな、NHKのSWITCHという対談番組だった。彼はその番組に、俳優の松坂桃李の対談相手として出演していた。そこで彼が何を語ったか、委細は覚えていない。けれど、彼がすごく楽しそうに自分のやっていること、自分の撮った写真、自分のやりたいこと、そして相手のことを語ったり聞いたりしている姿が目に焼き付いている。こんなに楽しそうに仕事をしている若者がいるんだという嬉しさと憧れを感じた。そして彼の撮る写真も、いいなと思った。簡単に言うとおしゃれな写真が多くて、でもそれだけではなさそうな、独特の空気感をフィルムに焼き付けているような写真だ。フィルムで写真を撮る経験なんてなかったし、旅先での空気感や色をフィルムに収めてみたくなった。だからインスタントカメラを持って行くことにしたのだ。

 友人と2人で紫陽花や街の風景、それからそこで見つけたフォントがかわいい看板などを撮った。

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 写ルンですを使っていたのだが、暗所がかなり苦手らしくて暗くて何が写っているかわからない写真とか、ピントがダメな写真もいっぱいあった。少し難しい。けれど、なかなかいいと思う。スマホで撮る写真は、確かに綺麗だけれど、その風景を見ているときの気持ち、感動を閉じ込めることはできない。インスタントカメラは解像度やシャープさでは劣るのかもしれないけれど、そのときの気持ちにより近い写真が撮れると思う。時代はまだデジタル一眼レフのほうが強いけれど、これからも続けようと思う。

 

 アナログへの回帰が流行になっているのはカメラだけではない。音楽の分野でもそれは起こっている。レコード、それからテープのブームだ。

 CDが売れない時代になってから、もうかなりの月日が経ったように思う。その結果として、音楽は2つの道に進んだ。一方はよりデジタルに、もう一方はよりアナログに。デジタルの最新形態として現れたのがハイレゾだけれど、あんまり一般に浸透していないように感じる。それに対して、最近のアナログ盤ブームは目に明らかだ。有名ミュージシャンがCDだけでなくアナログ盤でもアルバムをリリースしたり、インディーズの世界でも7インチのリリースやテープでのリリースさえ最近はよく目にするようになった。

 

 このデジタル化の権化、デジタル化を煮詰めて煮詰めて残った澱のような時代に、どうしてアナログへの回帰が至るところで起こっているのか?

 私なりの答え(かなりカッコつけた)を聞いてもらいたい。

 

 まず、デジタル化によって水準が上がったものは何か。私は「解像度」だとおもう。カメラしかりテレビしかり音しかり。どんどん細かく、どんどん「きれい」になったのだろう。私だって解像度の高いきれいな画面のテレビはいいなと思う。欲しいなと思う。しかし、解像度が上がれば上がるほど、失われていくものがある。それが「多義性」だ。

 たとえば、解像度の高い写真。とても鮮明で美しいし、被写体もくっきりはっきり、隅から隅まで細かく見ることができるだろう。でもそれは、限りなく「一義的」なものになっていると言えるのではないだろうか。言わば、写されたものは写されたものでしかない、という状態に固定されてしまうのである。誰が見ても、どう見ても、同じように理解できる。それはとても「便利」なのかもしれないが、そういう意味で一義的なものになると言えるだろう。

 一方、アナログのフィルムで撮った写真はというと、解像度も低く、輪郭もはっきりしないこともある。現像したものは、現実で見たものと同じ色ではないかもしれない。けれど、解像度の低さは、余白を与える。それは想像力の働く余地である。その写真は、そこに写っているものは、固定的なものではなく、可動的なものになる。恣意的なものになる。見る人によって違うかもしれない。それは少々「不便」かもしれない。でもそれは、そこに想像力が働くから。それは、悪いことではない。むしろ面白いことではないだろうか。

 物事はデジタル化によって一義化の方向へ進んでいく。それはきっと仕方のないことだし、悪いことでもない。だけど、一義的なものにばかり囲まれると、私たちが自由に動ける余白がどんどんなくなっていってしまう。どんどん便利になっていっているのに、なぜか閉塞感を感じてしまう。不可逆的な直線上の時間の中で、一義的なものばかりに追われる現代人。「コスパ社会」とでも呼びたくなる現代に生きる人々が見つけた「生き延びる」ではない「生きる」ための逃げ道。それがアナログへの回帰なのかもしれない。

 逃げていいんだ。私は今日も、逃げ続ける。

 

 

追伸

 鎌倉旅行に際して、私は1つ、時限爆弾を仕掛けておいた。それは、私の誕生日のときに手紙をくれた一緒に旅行にいく友人たちに、出発前に手紙を出すというものだ。旅行から帰ったら、手紙が届いているようにした。とてもアナログな時限爆弾である。私の仕掛けた時限爆弾3つは、ちゃんと作動したのだろうか?どのように作動したのだろうか?吹っ飛んでいればいいな。(多義)

 

 

 

シンギュラリティのその先は—サマンサとエヴァとポナンザに会って

 

 僕は高校二年生まで、自分が理系であることを疑わずにいた。それは、父親がそうだからだったし、数学はそんなに得意ではないけれど、理科は苦手ではなかったし、少なくとも嫌いではなかったからだった。だから進路を選ぶときも、工学部や理学部なんかを調べたり見に行ったりしていた。だけどちっとも惹かれなかった。何にも興味を持てないし、当然進路に迷った。

 そして気付く。自分は理系ではなかった。

 受験勉強としての理科は面白いし興味を持てた。でもそれはゲームだからだった。科学的な原理にも関心はあったしなるほどすごいと思いながら授業を聞いていたけど、そこまでだった。その先に自分の興味はなかった。というよりもむしろ、その先には恐れがあった。

 科学が無際限に発展していくことへの漠然とした恐れだった。

 そんなのはバカで無知な若者の戯言だと自分で思う。なぜなら、科学のなんたるかを何も知らないからだ。

 実際、iPS細胞ができたときもすげーと思ったし、はやぶさが帰ってきたときもすげーと思った。それらによってわかったこと、その先にあるものが人を、もしかしたら僕を救ってくれるかもしれない。なんならすでに僕はそういったものの恩恵を受けていま生きていられている。僕は生まれたとき、心臓に小さな穴が空いていた。割とよくある疾患ではあるみたいだが、一応死にかけた、らしい。当然記憶はないので、胸に残った手術の痕が僕の記憶の代わりをしてくれている。

 現代の医療に命をいただいている身なのだから、科学の持つ力の素晴らしさに心を震わせて、なんなら医学を志したってなんの違和感もない。

 なのに僕はそれが怖かった。

 しっかりとした理論があって科学の発展は良くないことだと言っているわけではないのだからタチが悪い。だけどとにかく、自分がその発展に貢献することはなんだか気が進まなかった。というよりも、その責任を負うのは嫌だった。その道に進んでいたら、きっとその責任に苛まれるだろうと予感したのかもしれない。

 

 シンギュラリティという言葉がある。AIが人間の知性を超えることである。

 AIは当時からすでに騒がれていたけれど、ここ最近はさらにその注目が加速しているようにも感じる。

 シンギュラリティについて語るとき、必ずと言っていいほど、「人間は滅びる」という言葉が伴う。それはもっともで、人間の知性を超えてしまったら、「人間の知性を超えたらどうなるのか」を人間には予測できない。AIが人間を敵視するかどうかはわからないけれど、今と同じような世界ではなくなるだろう。

 でもそれは、これまでに発展してきた諸科学が世界に与えてきたものと、どれほど違う変化なのだろう?これまでも変化してきたのだから、その一環に過ぎないのかもしれない。僕が単に保守的で、懐古趣味の強い人間なだけかもしれない。でも、怖い。

 

 僕がなぜこんな話をしているかというと、ここ数日に見た二本の映画が、ともに人工知能を題材にしたものだったからだ。『her』と『エクス・マキナ』だ。

 

 まずは『her』。


her/世界でひとつの彼女(予告編)

 『her』はある男性が人工知能、正しく言えば人工知能を搭載したOS、サマンサと恋をする物語である。

 映画としては、これでもかというくらいにカラフルで美しい、どこか透明な色彩に彩られた画面と、カナダ出身のインディー・ロック・バンド、Arcade Fireによる瑞々しい音楽、そしていちいち気の利いた、哲学チックなセリフたち、と、とてつもなく”おしゃれ”な映画である。それだけでも十分に見る価値のある映画だと思う。あとは人工知能役のスカーレット・ヨハンソンの声だけの演技も見もの、もとい、聞きもので、誰よりも人間らしいと感じてしまうほどの立体感に引きずり込まれる。

 

 では次。『エクス・マキナ』。


人工知能の未来『エクスマキナ』予告

 この映画は、世界的な検索エンジンの会社の社長が、一人の社員に人工知能エヴァのテストをさせるお話。彼女を人間だと感じられるかどうかのテスト。

 圧倒的な映像美。大自然の中に作られた現代建築的な極秘研究施設。でもそこには中庭があったり室内を大木が貫いているようなかたちになっていたりと、自然と人工物の対比だけでなく、その融合の美しさも映像に現れている。そこには人工知能という主題の扱い方も関係していて、非常におもしろい。

 

 どちらの映画も、シンギュラリティのその先を描いたものだと言えるだろう。でもその方向性はかなり異なっているとも言えるし、共通点があるとも言える。

 人工知能は天使なのか、悪魔なのか。

 

 先日放送されたNHKスペシャル人工知能 天使か悪魔か 2017』では、棋士羽生善治氏がナビゲーターとなって、人工知能の最先端が紹介された。中でも興味深かったのは、電王戦。つまり、人工知能と、人間界最高峰の棋士の直接対決である。ポナンザと名付けられた将棋用人工知能は、過去五万の将棋の棋譜をデータとして学習し、さらには700万を超える自己対戦、人工知能人工知能での試合を行なっている。そんなポナンザが名人・佐藤天彦氏との電王戦第一局、第一手目に指した手は、ポナンザが学習した過去五万試合には一度も存在しなかった第一手だった。将棋のセオリーや定石からは考えられない手で、早くも人間の頭脳を引っ掻き回し始めた。結果は、ポナンザの勝利で幕を閉じた。

 僕が棋士だったら、きっと絶望してしまう。しかし、羽生さんも佐藤さんも、そうではなかった。両氏共、AIの指す将棋に学ぼうとしているのだ。人間の積み上げてきた将棋の歴史、そこから考えられてきたあらゆる手。それらを遥かに凌ぐ速さと独創性で目の前に立ちはだかってきた人工知能。その存在に絶望するのではなく、人間の実力を伸ばすために取り入れようとしているのだ。

 佐藤氏の言葉が印象に残っている。

 「人間同士でやっていると気がつかないうちに、将棋の宇宙の中のある一つの銀河系にしか住んでいない感じになっていく。もっと広い視点で見ればいろんな惑星がある。(ポナンザとの戦いを通して)今まで気づかなかった自分自身の持っている面にも気づかされた」

 

 『エクス・マキナ』の中で、人工知能の進化は、生物の進化の文脈にあるという趣旨のセリフがあった。

 人工知能は人間が作り出した機械であることを超えて、新たな生命体として、人間がたどり着けなかった新たな銀河へと人間を連れて行ってくれるのか。それとも人間を置きざりにしていくのか。天使なのか、悪魔なのか。まだわからない。

 わからないことは、怖いことだ。でももう止められない。止めることが善でもない。

 シンギュラリティのその先を、僕たちは見届けられるだろうか?