九六フィートの高さから

それとなく落下 相対速度は限りなくゼロ

円城塔『道化師の蝶』を読む——「わたし」のメタは滅多打ち

円城塔『道化師の蝶』を読んだ。

読んでしまった、と書いたほうがより正しいのかもしれない。

 

表題作「道化師の蝶」、そして「松ノ枝の記」の二本の短編が収録されており、「道化師の蝶」は第146回芥川賞を受賞している。

円城塔という名前は知っていたが読んだことがなかったから、古本屋で見つけたときに買ってみたのだ。というのも、表紙がハッとするほど美しいから。表紙の装丁、もはや背表紙の印象でその本を読むかどうか決めてしまうことが多く、そういう意味で惹かれたことは多分にある。

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読み始めて数頁で、こんな文章は読んだことがない、と思う。書いてあることが、文章の組み立て方が。情感のない、翻訳体のような文体(もちろん、翻訳物の文章に感情が感じられないということが言いたいわけではない)。口から出まかせが溢れ出しているような、突拍子も無い会話。そういう日常とかけ離れた要素に夢中になって読んでいると、第二章(正確にはⅡ)が始まり、頭の中が掻き乱され始める。

 

結果、終始頭と意識と言語理解をひっくり返されながら最後まで読まされた。しかし、わかりはしない。それがこの物語の異様なところだ。複雑な伏線を張り巡らせ、最後に大回収して物語としてまとめる、という通常のプロセスを踏んではくれない。最終的に発散させたまま終わらせるのだ。その結果、読者はすぐにもう一度読むことになるし、何度読んでも同じようには感じない。二回読んだが、またそう遠く無い未来に読み直すだろうと思う。なぜなら、どこかがわかった気になると、また別のわかったと思っていたところが疑わしくなってくるからだ。永遠に捕まえることができないとさえ思う。ウロボロス

 

 

この物語の特異性は何か。非力ながら少し書いてみたい。

 

とにかくこの物語とその構造は、読者の無意識を欺いてくるのだ。

物語を読む読者にとって、一番無意識なこと。それは”地の文”というものだ。

物語が書かれている以上、そこには当然地の文があり、視点というものが立ち現れる。地の文は誰の視点なのか。「道化師の蝶」は全部で五つの章からなり、すべて「わたし」という視点から書かれている。相当奇特な者を除けば、読者は当然、最初から読み始める。そしてそこに現れてくる「わたし」こそこの物語の主体であり、読者が取るべき視点だと思う。そういうふうに本を読むことを教わっている。言い換えれば、そう思い込まされる。そしてそこにまず立ち上がる世界こそ、この物語の世界だと思う。または思い込まされる。「男が座っている」とあれば、「男が座っている」のだと思う。以下同文。それが普通のことであり、それは、それが前提とならなければ、物語の世界は錯綜してしまうからだ。

そうして、錯綜させられる。何度も。多重に。

この記事にはネタバレをする意図はないから、具体的な話には踏み込まない。実際に読んで、振り回されて欲しい。とても楽しいから。

 

もう一つ、予備知識としてあってもいいと思うのは、ロシア人文学者、ウラジーミル・ナボコフのことだ。「ロリータ・コンプレックス」の語源ともなった小説『ロリータ』の作者として有名な小説家だ。作者・円城塔のインタビューで、この物語はナボコフの長編小説『道化師をごらん!』の単行本の見返しに描かれた蝶のスケッチをモチーフとして書かれたことが明かされている。そしてナボコフとこの物語の共通点はそれだけでない。ナボコフの作風として挙げられるのが、文学的仕掛けの「難解さ」と言葉遊びである。これはちょうど「道化師の蝶」の特徴と重なる。さらにナボコフは鱗翅目研究者でもあった。要は蝶の専門家である。このようにこの物語とナボコフはあらゆる点で重ねられている。付け加えるなら、ナボコフの妻の名はヴェラであることを記憶に留めておくと良い。

 

 

ずいぶんと偉そうに講釈を垂れてみたが、いかがだろうか。ちなみに、この記事の地の文において一人称を使っていないことにお気づきになっただろうか。特に意味はない。ただのお遊びである。

 

 

何が真実なのかわからない。

「わたし」は誰なのか。彼ら、あるいは彼女らは誰なのか。

 

「わかるようにできていないのだから当然だ」

 

あの蝶を捕える網は与えられていない。